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夜の街に彷徨い出て、当ても無く新宿の辺りをうろついた。 マンションのエントランスに出た時、たまたま別の住人と出会ったのは幸運だった。 あのマンションに住める位だからさぞかし金持ちの有閑マダムであろう、灰色の毛皮を着た老婦人は、番号を忘れたと俺が言うと「それはお困りでしょう」とすぐに頷き、彼女の番号を使ってエントランスの扉を開けてくれた。 セキュリティーが厳しいのは安心ですけれど、こういう時に逆に困るものですねと、優しい笑顔で見送ってくれながら。 道を歩いていてもする事がないから、携帯をぼんやりと取り出して過去のメールを眺めたりしていたが、その内にふっと思った。 この携帯には、洋一の番号も先輩の番号もまだ入ったままだ。そのメモリーを呼び出して公衆電話で連絡を取ったら、きっと家族が出るだろう。 彼らの死んだ状況の詳細も、もしかしたら判るかも知れない。それは俺が死ぬ前に把握するべきだと思った。 家族に詳細を尋ねるなんて無神経だと思ったし、知って償いが出来る訳でもないけれど、俺の所為で彼らは亡くなってしまったのだから、せめてそれらは知っておくべきじゃないのかと。 手近な公衆電話ボックスを見付けて、中に入った。 シャツ一枚じゃ夜は冷えるが、埃くさいボックスの中はまだ少しでも冷気を遮断していて、どうにか過ごせる。 地面や電話機の上を見回すと、幸い誰かが忘れて行ったらしい、使い掛けのテレカがあった。50度数のうち、まだ半分程は使える。 早速それを機械に差し込んで、まず洋一の携帯に掛けた。 すぐに受信されたので、相手を確かめようと一呼吸置いたら、耳慣れた声が聞こえて来た。 ――絶対に無いと諦めていたので、俺は我が耳を疑ったが、それは確かに洋一の声だった。 『もしもし?』 「――あ…れ…」 俺が息を呑んだだけで、洋一は俺だと判ったようだった。 あっちも吃驚して、えっと呟いたきり絶句している。 こちらもしばし言葉が無かったが、電話代が勿体ないので、急いで切り出した。 「洋一、俺だよ、裕樹だよ――ごめん…俺、生きてたんだよ」 『え…ちょっと待ってくれ? 裕樹、裕樹なのか! お前、まさか生きてたのか!? おい、これって夢じゃないよな!?』 洋一は喜びと驚愕が混じった大声で呼び掛ける。 それはそうだろう。会社だって死亡届が出されているんだから。普通なら、死んだ人間が生き返るのを簡単に受け入れられたりはしない。 携帯の向こうで身を乗り出している様子が、手に取るように伝わって来る。  「事情は言えないけど、いろいろあってさ。それで洋一、お前が事故ったって、夕刊で読んで…」 説明すると、洋一は面食らった返事を発した。寝耳に水という口調がありありと出ている。 『へ? 事故なんかしてないぞ、毎日健康そのものだ。どこの夕刊だよ、それ。でたらめにも程があるって』 「毎朝新聞だけど…」 『ええ? それ、俺も読んだよ。でもそんな記事載ってなかった。載ってたらそりゃ俺が一番に新聞社に抗議してるし、他の奴だって気付いて俺に連絡して来るだろ。でも誰も何も言って来てないぞ』 「…え。そんな…」 一体どうなっているんだ、これは。 俺が読んだ新聞だけが、間違ってたって事なのか? 嘘八百の記事だったのか。 まるで自分が魔法か幻想の空間に一人彷徨って、周囲の現実から隔絶されている気分になった。もともと半年もそういう世界の住人だったのだけれど。 待てよ。 生きているのに俺が形だけ『事故死』になったように、藤崎がでっちあげの新聞を俺に見せて、彼ら二人を『事故に遭った』と見せ掛けたのだとしたら? それくらいならあいつはやってのける。俺を抹殺した位だ、偽りの新聞を作るくらい訳は無いだろう。 ――じゃあ、あいつの意図は何なんだ。 俺を狼狽えさせて、嘆く様を見てみたかったとでも言うのか。動揺させたかったのか。 二人と俺を単に切り離したかっただけなのか。 判らない。 あいつの考えている事が、もうさっぱり判らない。 こんな悪質で最低な嘘を作り上げてまで俺を傷付けようなんて、人間の仕業じゃない。 この仕打ちは、これまでのあいつの行動の中で最も許せないものだ。 今目の前に藤崎が居たら、俺はあいつを殴って力の限り罵ったに相違ない。 『――裕樹、お前今どこに居るんだよ? 前に電話が変に切れた時から心配してたら、お前が事故で死んだって聞いて…俺、すごいショックで…』 ああ、そうだったな。バーで洋一と話していた時、藤崎が俺達の携帯を勝手に切ったのだ。 お前、心配してくれてたんだな。 別れを切り出したのは俺からなのに、そんな俺の事をずっと。 「ご免な、半年も心配掛けて…いろいろあったんだ」 もっと話していたかった。 洋一が無事だった事を確かめる為に、もっと長く。 でも携帯に掛けたら200円分なんてあっという間で、すでにテレカの残り度数は一桁に落ちていた。 俺は今度は間の悪い切り方をするまいと、自分から終わりを告げた。 「ごめん、テレカが終わりそうだからそろそろ切るよ。お前が無事で居るって事が判って嬉しかった。多分もう会えないと思うけど、これからも元気でな」 洋一が縋るように言って来た。 『お前もな、裕樹。お前も元気でな。俺、お前の事忘れないからな、ずっと』 こんな些細な思い遣りすら、俺には僥倖として胸に沁みた。 俺が藤崎に求めたのは、こういう小さな心遣いだった。 それだけで俺は充分だったんだ。 贅沢な環境や財産なんて、要りもしなかったのに。 「ありがとう…じゃあな」 俺の方に余裕が無いのを知って、あいつはじっと切らずに居てくれた。一秒でも長くと、そう思ったのだろう。 俺は、静かに受話器を置いた。 受話器が落ちるガチャンという音の後に、使い切られたテレカが吐き出される。 煩く鳴り続ける機械からカードを抜き出し、電話機の上に乗せると、俺は外へ出た。 雲の上を歩いている気分だった。 この分だと先輩も無事だろうと、半ば確信めいた考えが浮かんだ。またいずれ別のテレカを見付けるか、金を作って、電話を掛けてみよう。 洋一と話している間に、死ぬ気は殆ど失せていた。 二人は藤崎に害される事もなく、無事だったので、張り詰めていた気が抜けてしまったのだ。 夜のネオンと闇を見上げて、これから何処へ行こう、と思った。 家出したから寝る場所も無い。 そもそも金が無い。 コンビニに寄っても100円のガムすら買えない、完全な無一文だ。ホテルなんて泊まれない。 このまま寒い中を歩いていたら、凍死するかな。 それでもいいかなんて、氷塊のような大気を掻き分けるように、投げやりな気分でゆっくりと歩く。 夜の10時で週末と来れば、人通りは減るどころか増える一方だ。 路地をやみくもに歩く内に、何だか人気の良くなさそうな雰囲気の場所に迷い出た。 こんな所は、会社勤め時代にも来た事は無い。 少し怖くなったので道を引き返そうと、踵を返し掛けた。 すると後ろから、若い男の声が俺を呼び止めた。 「そこの兄ちゃん、ちょっと待った」 「え」 俺が振り返ると、まあまあ顔がいい、茶髪を肩まで伸ばした若い男が俺をにやにやしながら見ていた。俺よりも若干年下だろう。 左耳に大きなピアスをしていて、革の上下とTシャツ姿の、いわゆる現代風な若者だ。 だが顔立ちはともかく、その目付きにどこか厭悪感を覚えた俺は、本能的に後退った。 足元のアスファルトと砂利が擦れる音が、靴の下で高く響く。 肌は寒さに震えているのに、背筋にはじっとりと冷たい汗が流れていた。 若い男は下世話な笑いをもっと強めながら、軽く手を振った。 「そんなにびびらなくても大丈夫だよ、俺、変な趣味なんて持ってないし。あんたが向こうから歩いて来てる時から、目付けてたんだよね。あんた、顔も身体もタイプだし。5万でどう?」 「――?…」 「それじゃ安い? じゃあ6万でどうかな」 俺は、この男の言わんとしている事がようやく理解出来た。 つまり俺を、買おうとしているのだ。 この界隈は、男同士でそういう接触を図る場所だったらしい。何となくまっとうでない空気を感じ取ったのは、まさに正解だった訳だ。 6万……6万か。 それも悪くない。手元に金は1円も無いのだし。 今俺が持っていて、手っ取り早く金になるものと言えば、この身体しか無かった。 身を売る事そのものや、藤崎以外の男に抱かれる事の躊躇いや嫌悪よりも、まとまった金を手にする方が先だった。 「――いいよ、6万で」 男は俺の了承を聞くなり、早速肩を馴れ馴れしく叩いて、手を取る。 「よし、じゃあ行こう。そこにホテルがあるからさ」 そうして男は、近くのしけたビジネスホテルへと俺を連れて行った。
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