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部屋は狭かった。 ドアから入って右側にユニットバスがあり、その奥の窓と壁に囲まれるようにダブルベッドが置かれてあるレイアウトだ。男二人が立っていたら、狭苦しい事この上ない。 ベッドの前に立つなり、男は安っぽいブランド財布から万札を6枚取り出して俺に渡した。 「はい、6万ね。俺、こういうのは先に済ませる性質なんだ。その代わりシャワーなんていいから、すぐに始めような」 こういう事にはさっぱり疎いので、先払いと後払いのどっちが通例なのかも判らなかったが、別に構わなかった。抱かれた後に金を払われないよりは、前払いの方が信用が置ける。 どうにかエアコンで温まった部屋のお陰で、唇から震えは取れた。 寒さに強張っていた筋肉が、少しずつ解れて行く。 男は俺のシャツのボタンを外し、ジーンズも脱がせたが、徐々に露になる肌を見ながら、ヒュッと口笛を吹いた。 「あんた、すげえじゃん。男居るんだろ? こんな事やってていいのかよ」 「………」 何に言及されているのか、察しは付いた。 今日の朝まで藤崎に断続的に抱かれていた為に、俺の肌にはあいつの付けた痕がそこら中に残っているのだ。 それこそ人前では見せられない程に。 「ひょう、背中まで…相当愛されてるじゃん。まあ判るけどさ、あんた色っぽいし。俺、いいのかなあ。あんた抱いたら、彼氏に喧嘩売られそうだ」 「…いいよ、気にしないでくれ。別れてるから」 「へえ? こんなに熱々なのに別れたって、何か信じられねえの。まあいいや、あんただってたまには浮気したくもなるだろうしな。人様の物盗むのって、スリルあっていいよ」 ごちゃごちゃ煩い男だ。 俺は会話を封じ込める為に、最後は自分で何もかも床に放ると、ベッドの上にさっさとうつぶせに乗った。 「そっちの姿勢の方がいいわけ?」 笑いながら男が伸し掛かって来る。 すでにこいつの身は欲望を示していた。 「こっちの方が好きだから」 俺は短く応じたが、実際はそうじゃなかった。藤崎以外の男の顔なんて見たくもなかったし、見られたくもなかった。 この姿勢の方が、身体だけを貸しているという意識を強めるように思ったから、そうしただけだ。 俺はそのまま、こいつに身体を与えた。 少しも快楽なんて感じない、今までで一番空しく索漠とした時間だった。 ※ ※ ※ 男の方が先にシャワーを浴びて、部屋を出た。 ホテル代は男が払っていたから、心配は無い。 一緒に出るかと訊ねて来たそいつに、俺は後に残ると答えた。一人でゆっくりする時間が欲しかったからだ。 ドアが閉まって誰も居なくなってから、シャワールームに入って肌を流した。 胃に砂袋が溜まったみたいに重たく、気持ちが悪い。 身体中が穢れた感覚に襲われ、自分の肉体が忌まわしくて仕方が無かった。 湯に当たる内に、今朝から何も食べていない胃が痙攣したので、そのまま吐いた。 すぐに吐き気は収まったが、全身に纏わり付く重さは全然取れない。 幾ら肌を擦った所で、男の厭らしい手の感触は少しも薄れなかった。 ……とうとう、身体まで売っちまったんだな、俺。 顔に当たるシャワーを浴びながら、その事実を反芻する。 堕ちる所まで堕ちたという感じだった。 『あんた、別れたって嘘だ。本当はまだ、付き合ってるんだろ。そいつの事、好きなんだろ?』 俺を貫きながら若い男が喋った台詞が、意識を通り過ぎた。 ――好き…… 好きなんてレベルじゃない。でもただ愛していると言うのとも、少し違う。 藤崎に対して抱いているのは、憎悪にも似た愛情。 優しい気持ちになれる恋とはまったく異なる。 離れられない。どれ程に酷い事をされようとも。 それはあいつへの感情が、単なる恋愛の段階を超えているからだ。 写真のネガとポジとか、コインの裏表というのとはニュアンスが異なる。 ただ、出会ってしまったと。そう思うのだ。 運命の相手というのが居るのなら、俺にとってのそれは藤崎なのだ。 あいつを知ってしまった今、あいつ以外の相手というものは考えられない。 強いて言うなら、組み合わされるべき一対として生まれ、世の中で離れ離れに生きて来たのが、出会ってしまったというような存在なのだ。 たとえ俺達が相手を殺したい程に憎み合ったとしても、憎悪という単語だけでは説明し切れない何かが、俺の中には介在し続けるだろう。 風呂から出て髪を乾かし、腰にバスタオルを巻いて部屋に戻る。 暗い照明の中で溜息を吐いた時、男が出て行ったばかりのドアがノックされた。 さっきの男が何か、忘れ物でもしたのかな。 そう思い、俺はドアまで歩いて行くと、チェーンを外して鍵を開けた。 ――眼前に立ちはだかったのは、黒く大きな人影。 カシミアのコートが帯びている冷気が、すぐ傍の俺にまで迫って来る。 冗談だろう…… あのマンションからかなり離れた所まで歩いて来た。 多分徒歩で1時間以上は歩いた筈だ。 しかもあんなうらぶれた路地で引っ掛けられたのに、どうやってこいつは俺の居場所を突き止めたんだ。 藤崎が後ろ手にドアを閉めたので、俺は観念して部屋の奥へと進み、ベッドの縁に腰を落とした。 安物のスプリングが軋み、その音に先刻の時間が蘇る。 男が俺を散々弄ぶ動きに合わせて鳴っていた音。 藤崎はベッドの足元の壁際に立ったまま、こちらを無言で見下ろした。俺のすぐ左側の視界に、黒いコートが崖のように映っているが、勿論俺は藤崎の方を見ようとはしなかった。 上半身は素肌のままだったものの、形ばかり椅子に掛けてある服を着る気も起きず、視線を前の壁と机に何となく向けていると、その上に乗っている6枚の万札に藤崎も目を止めたようだった。 それでなくとも、乱れたシーツといい、俺の格好といい、この薄汚れた狭い一室で何があったかなんて、中学生にだって察しが付く。ましてこいつの鋭い目を誤魔化せる物なんて、何もありはしない。 金を見た途端、藤崎の気配が瞬時に険しい物に変わった。 ――殴られる。 咄嗟にそう思った俺は目を瞑り、歯を食いしばった。 だが頬に予測していたような衝撃は走らず、代わりに傍の壁がダンと大きな音を立てて揺らいだ。 ……恐る恐る瞼を開くと、藤崎は拳を壁に叩き付け、その甲に額を押し当てていた。 身の奥から突き上げる何かを堪えるかの如く、荒い呼吸を何度も繰り返し、肩で息を吐いている。 唇で息を切る音がはっきりと聞こえ、その逞しい背が僅かに震えていた。 藤崎がここまで感情を剥き出しにして、動揺しているような姿を見るのは、初めてだった。 怒っているのか。 怒っているだろうな…… 囲っていた情人が逃げ出して、行きずりの男に身体を売ったのだから。 藤崎は深い呼気を更に数回吐いた後で、波立つ胸郭をどうにか鎮め、俺に向き直ると、何故だと搾り出すように呻いた。 ――低く掠れた、聞くだけで俺の心にも血を流させるような、何かが籠った声だった。 その顔色は完全に失われ、蒼ざめてさえいる。 何故とは、俺がマンションを出た事を訊ねているのか、それとも見ず知らずの男に抱かれた事を訊いているのか。 両者を含め、俺はそれに短く答えた。 「俺の金が欲しかったんだ。あんたの金じゃない、俺がこの手で稼いだ、自分の金が。そうして、自分で生きたかった」 自分の金を得る為だったと、そう答えた俺に、藤崎は何も言おうとはしなかった。 薄い唇を血が滲まんばかりに噛み締め、何かを必死で耐えるかのように拳を握った後で――俺の上半身を見遣り、自分のコートを脱いで肩を包み込んでから、無言で出て行った。 黒い布地がまだ残している藤崎の体温が、素肌に温かかった。 ドアが閉まる音と入れ違いに、別の足音が入って来る。 藤崎の部下の、堀田だ。 エリートビジネスマンのような能面と、整った肢体に仕立ての良いダークスーツを纏った若い組織員は、俺を無表情に見詰めて来る。 俺と藤崎がバーで出会った時、堀田は組長を迎えに現れていたが、その時からこいつの顔付きが少しでも動いたのを目にした事がない。 顔面の筋肉の動きが乏しいのじゃないかと思う程だ。 何度も面識のある唯一の藤崎組のメンバーであり、俺と藤崎の関係も最も良く把握している男でもある。 「良かった。怪我は無いようですね」 それが、堀田の第一声だった。 「そうか? 藤崎は俺を殴りたかったようだけどな。代わりにそこの壁が犠牲になったよ」 堀田は何を方向違いな事を言っているんだと嗤わんばかりに鼻を鳴らした。 「あの方が貴方を殴ったりする訳がない。そんな事は絶対に有り得ない。私が申し上げているのは、貴方が取った客が乱暴な振る舞いをしなかった事です」 こいつの容赦無い冷静な声で形にされた、『客を取る』という表現。 それが改めて心に刺さったが、俺は平静な振りをして動揺を隠し、何の事だと訊ねる。 「貴方は何もご存じない。道端で男を拾い歩く人間がそうそう親切な者とは限らない。嗜虐的な振る舞いを好む者が暴力に及ぶ事も多いのですよ。貴方のような世間知らずの方がたまたま普通の客に当たったのは、運が良かったとしか言いようがない」 確かに、堀田の言う通りだった。 かなりしつこく貪られはしたものの、前払いで金を出したりと、行動傾向は決して悪くは無かった。 性質の良い男で良かったと、俺も思ったものだ。 堀田は机の上の金を見て、唇を皮肉に歪める。 明らかな侮蔑の顔付きだ。 「6万ですか。貴方ももう少し利口だと思っていたのですが、私の買い被りだったようだ」 如何にも『折角認めてやったのに』みたいな口調にむっとした俺は、すかさず切り返した。 誰もお前に利口だと思ってくれなんて頼んでやしない。 「お前が勝手に買い被ったんだろ」 「ええそうです、私が見誤っていたのです。貴方はこれ以上無い程に愚かな人間だ。マンションに貴方が居ないと知った時、あの方は狂ったように都内中を捜索させたのだ。そして貴方が見知らぬ男とホテルに入って行ったという情報を聞いた組長が、一体どんな思いをなさったか――貴方に想像出来ますか」 ――あの男が、狂ったようになったと言う。 俺が居ないと知った時、自制心を失ったようになったと。 信じられなかった。 俺が姿を消した所で、あいつは顔色すら変えないだろうと思っていた。 なのに。 「このホテルの近くに到着した時、部屋に踏み込もうと思えばいつでも踏み込めたのです。それをせずにあの方が外の車で待ったのは、貴方に恥を掻かせたくなかったからだ。抱かれている最中に、第三者に押し入られたくなどないでしょう。あの男がようやく外に出て来るまでの1時間は……組長の横に侍していた私に取っても、辛い時間だった」 堀田はいつもの冷静さを忘れて徐々に語尾を震わせて行く。 激昂を抑え付けようとしても、抑えられないようだった。 そしてついに、俺に対する激怒を叩き付けた。 藤崎の呻吟を代弁するかのように。 「惚れた人間が他の男に抱かれるなど地獄の苦しみだ、それをあの方は耐えた、全ては貴方の心を思ってだ! 貴方を凄まじい恥で苦しませる位ならと、出来ればすぐにでも貴方を男から引き離したかったのを、ただ黙って待ち続けたんだ! そんなあの方の気持ちを貴方は少しも判ろうとせずに、何と言う馬鹿な事を――!」 俺に惚れている? そんなのは大嘘だ。絶対に違う。 二人を殺したなんて嘘を吐いてわざと俺を傷付けて。 惚れているのは俺だけで、あいつは俺の事などちっとも愛してなどいなかったんだ。 俺は思わず叫び返していた。 「じゃあ何故あの二人を殺したなんて嘘を吐いたんだ、何故あんな酷い嘘で俺を苦しめた、電話したら洋一はちゃんと生きてたじゃないか ! ?  冬堂は俺の事なんか愛していない、所詮身体だけだ ! ! 」 堀田は大きく目を見開くと、暫く頭を整理するかのように口を噤み、それから、それは違うと押し殺した低い声で言った。 「違う――あの方は、本当にあの二人が死んだと思っていらっしゃったのです。私は初めて組長の命令に背いて、二人を殺さず、ダミーの夕刊を貴方のマンションに入れただけだった。彼らを殺せば貴方もきっと責任感から自ら命を絶つに違いない、そうなれば組長ご自身の心をも砕く事になる、そう推測したからです。貴方の為でなく組長の為に、私は二人を殺さなかった。その旨を私は先程車の中で申し上げたが、あの方は何も仰有らなかった」 「な……」 考えても居ない事実だった。 本気で洋一達を殺すつもりだった藤崎の思惑を、こいつが止めてくれたのだ。 「――だが、それも無駄だった。ある意味貴方のこの行動は、命を落とすよりも更に酷くあの方を傷付けた。私の工作も全て無為に終わったのだ。貴方に言う事はもう何もない、好きになさる事です」 堀田は怒りと失望を籠めてそう吐き捨てると、踵を翻して部屋を去った。
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