801人が本棚に入れています
本棚に追加
6
独りぼっちになり、空気は静けさを取り戻したが、堀田の叫びの残響がまだ残っているかのように揺らめいている。
その中で俺は、堀田に言われた事、藤崎の言動や態度、それらを思い返してみた。
俺が居なくなったと知って、都内中を探した藤崎。
そして見知らぬ男とホテルに入ったと聞いても無理に扉を破らずに、俺が独りになるのを待っていた藤崎。
振り上げた拳を壁に叩き付け、何故だと呻いた声。
俺の肩にコートを掛けて、自分はスーツのままで出て行った姿……
――涙が、零れ落ちた。
後から後から頬に伝う透明な粒は、コートにぽたぽたと落ち、砕け散って行く。
心が、ずたずただった。
やっと俺は、藤崎の苦しみが判ったのだ。
怒りたかっただろうに。
過去に付き合った二人すら殺そうとした程に独占欲の強い男が、俺が他人に抱かれているのを知っていながら動かなかった、その苦悩は想像するまでも無かった。
辛かったと思う。
胸を掻き毟ったと思う。
なのに、俺の恥ずかしい姿を晒させない為に、事を大きくしない為に、藤崎はただ、待ったのだ。
胸を破る嫉妬をひたすら抑え、俺の為だけに。
このコートを着せ掛けてくれたのも、俺が寒そうだったのと、後で堀田が入れ違いに入って来るからと、服の代わりに肌を覆ってくれたんだ。
応えていなかったのは、俺の方だった。
求められながら与えていなかったのは、俺の方だったのだ。
これ程に藤崎は俺を愛してくれていたのに。
俺を探し回ってくれる程に。
俺の為に、気が違いそうな苦悩を耐えてくれる程に。
洋一の名を呼んだ時に、凍り付いた眸。
あれは、嫉妬と傷の入り混じったそれだった。
何故あの時に気付かなかったのだ、俺は。
コートを肩から滑り降ろし、両腕で抱いた。
黒いカシミアからは、藤崎の薫りがした。
愛用しているグッチの他に、あの身体からいつも感じていた、藤崎の懐かしい薫りが。
恋しかった。
あの男が恋しくて堪らなかった。
金なんか何だと言うのだ、対等で無くても良かったじゃないか、あの男の為ならば何だって与えられた、そう自由だって命だって。
俺は何をつまらない事に拘り、頑なになっていたのだろう。
机に置かれてある6万円が、汚らわしい紙切れにしか見えなかった。
価値など全然無かった。
どんなに藤崎は傷付いたろう。
俺があいつの許を逃げ出し、行きずりの男に身体を売ったと知って、どんなに衝撃を受けただろう。
それを思うと、俺の方が命を落としたい程に哀しく、ナイフで切り裂かれているように胸が痛んだ。
謝れるものならば、そうしてあいつが少しでも傷を癒せるのなら、今すぐにでもそうするのに。
罪を無かった事に出来るなら、俺は魂だって進んで悪魔に売り払う。
だけど時間は取り戻せない。すでに経た過去を、無かった事には出来ないのだ。そんな事が叶うなら、世の中はとっくに上手く回っている。
犯した過ちを消す事は絶対に不可能なのだ。
俺はまるでコートが藤崎自身であるかのように総身で抱き締め、ベッドに横たわって泣き続けた。
己がしてしまった酷い行動の後悔に苛まれ、藤崎への恋情に焦がれながら。
※ ※ ※
一晩中気が済むまで泣き明かしてホテルを出た時、すでに外は夜明けを迎えていた。
白々とした大気に、俺の吐く息が白い煙となって立ち上る。
例の6万円は、机の上に置いて来た。
清掃に入った従業員が懐に入れるだろうが、構やしない。
あんな物、手に取る気にもなれなかった。寧ろ他の誰かが使ってくれた方が有り難い。
携帯は床に落として壊した上で、ゴミ箱に放り込んでいた。
コートを丁寧に畳み、腕に持った俺は、すでにある決心を固めていた。
ここから藤崎組の事務所までは、歩いて30分ほどすれば辿り着く。
そしてぽつぽつと歩いて行った俺は、朝の6時過ぎには、事務所の玄関前に到着した。
入口を固めている怖そうな角刈りの人に、堀田さんを出してくれと頼んだ。
体格のいい男は、何でこんな若造が若手幹部の事を知っているんだという顔になったが、俺が「林裕樹が来たと伝えて下されば判ります」と言うと、渋々中に取り次いでくれた。
そして果たして、堀田は昨日と同じスーツ姿で奥から出て来た。俺と同じく、一睡もしていない顔だ。
彼がここに居るなら、藤崎も絶対にこの事務所内に居る。
堀田は敬愛する組長の側で寝もやらず、その心を慰めるに胸を砕いたのだろう。
今更何の用だという冷淡さをあからさまに見せる組織員に、俺はこのコートを返しに来たのだと告げた。
「直接、藤崎に会いたい。彼に会わせてくれ」
組長の事を呼び捨てにする若造に、入口の警備係は目を剥いた。だが堀田は手を上げて制止する事で、事情があるのだと身振りで示すと、付いて来いと顎をしゃくった。
玄関の扉から中に入ったが、ここを訪れるのは俺は初めてだ。
普通のビルとまったく変わらない造りなのに、外には『藤崎組』と大きな代紋が掲げられている、暴力団の建屋。
この中で、藤崎は配下3千人を率いて采配を揮っているのだ。
階段を5階まで上り、警備用のゲートの暗証番号を押して廊下に入り、真ん中の扉に導かれるまでの間、堀田は一言も喋らなかった。俺も特に話し掛けようとはしなかった。
堀田は扉の前に静かに立つと、規則正しく2回ノックして、呼び掛ける。
「組長、林さんがいらっしゃいました。お通しします」
内からの返答を待たず堀田は扉を開けて、俺が入ったのを見届けると、ドアを閉めた。
広い部屋は、薄暗かった。
多分防弾仕様であろう奥の窓から、陽光がブラインドを通して僅かに差し込んでいるだけで、家具の配置なども目を凝らさないと判らない。
それでも俺は、窓の前にある机と、その大きな椅子に座っている人影をすぐに見付けられた。
机はこちら側が正面で、窓を背にする配置なのに、俺の位置からは椅子の背凭れが見えている。
つまり椅子に腰掛けている人物は椅子を回転させて、窓の方を向いていたのだ。
背凭れはとても大きくて、座っている人物の頭が少し見える程度だったが、それが藤崎である事を、俺は判っていた。
「冬堂……コートを、返しに来た。ここに置いておくよ」
俺は近くのソファにコートを乗せながら、そう呼び掛けた。
だが返答は無い。
そのまま俺は奥まで歩いて行き、椅子の前まで回り込んで、窓と藤崎の間に塞がるように立った。
藤崎は、目を閉じていた。
けれど眠っているのではない事は、明らかだった。
彼もこの暗闇の中で、一晩中懊悩したに違いない。
俺は手を伸ばし、彼の頬にそっと触れて頭を抱きながら、その膝の上に左向きに乗る。
背に、藤崎の右腕が回った。
彼は何も言わなかったし、俺も言葉を発せなかったけれど、この温もりに、俺はこれまでで最も心が満たされていた。
俺達の間に、もはや烈しい言葉も、愛撫も、必要無かった。
俺は愛されている。
その沁み入るような想いが、真実が、藤崎と触れ合う温もりから伝わって来たからだ。
何という穏やかな時だろう。
今まであれ程に諍い、傷付け合って来た関係が、嘘のようだった。
藤崎の首筋の後ろに左腕を通し、右手で頬を支えて、唇を重ねる。
彼はそれを受け止め、俺の唇を舌先で柔らかく開き、口腔内をゆっくりと舐め上げた。
背筋がぞくりとする。
こんな静かな接吻を藤崎と交わしたのは、初めてだった。
今まではいつも、相手の何かを奪い合うような……そう、争いにも似た接吻だった。
でもこれは違う。
心を与えて繋ぎ合う、とても安らかで、切ない程に胸が痛くなる口付けだった。
「あんたを、愛している……誰よりも……」
唇を離し、声にならない吐息で囁いても、藤崎の答えはない。
でも、もういいのだ。
すでに言葉は要らなかったから。
「……昨日の事は、謝りはしない。謝って済むものではないから――だから、冬堂。俺を殺してくれ。今、すぐに」
男の瞼が、ゆっくりと開かれた。
その瞳の色は、闇色を帯びながら、深い光を湛えている。
深淵の底に閉じ込められ、たゆたう陽光のように。
その双眸に、魂も何もかもが痺れて行きそうだった。
「俺はあんたを愛している。心も捧げている。だけど、あんたに対して贖い切れない過ちを犯した……だから、この命で償いたい。俺の命を、身体を、あんたに遣る」
殆ど唇同士が触れ合わんばかりの距離で、俺は囁き掛けた。
藤崎に殺されるなら、死すら甘美だった。
甘い蜜のように俺を死へと躊躇いなく誘うのは、この男への愛情。
愛しているから、殺されても構わない。
愛しているから、命を賭けて償う。
俺自身の生命が、罪業の代償。
もう一度俺が、藤崎に粘り付くように接吻した。
早く殺してくれとねだるように、自分から舌を差し入れながら。
その時、俺の唇に応じている藤崎の左腕が滑り降り、机の引き出しを開けた。
何か重たい物を取り出した音。
俺の背後で、左手から右手にそれを持ち替えた藤崎は、冷たく硬い感触を俺の鳩尾に押し付けた。
――拳銃の銃口だ。
俺達の目が合った。
藤崎の表情は、少しも変わっていない。
俺は、頷いた。
一息に殺してくれと。
構わないから、と。
撃鉄の鈍い金属音が、かちりと響く。
最初に殺してくれと言ってから、1分も経っていないと思う。
それなのに、何時間も過ぎているかの如く感じる。
眼前に死が迫っているというのに、何故か、少しも怖くない。
銃口が、喰い込んだと思った瞬間――
胸部に、強い衝撃が走った。
焼け火箸で殴られたかのような熱が鋭く駆け抜ける。
反動で大きく跳ねた俺の身体を、藤崎の左腕が確りと支えてくれた。
遠ざかる意識、霞む視界。
温かい血潮が、胸から流れ落ちて行く。
藤崎の膝からずるずると滑り落ちたのが、遠い出来事のようだった。
痛みは、無かった。
床に頽れる俺の動きに合わせるように、腕を掴んだまま椅子から降りた藤崎が、耳元に囁いた。
――愛している――
ああ……
もう、これだけでいい。
あの温もりだけで、殺してくれるだけで充分だったのだ。
この言葉を貰えた今、俺は喜んで死んで行ける。
胸に込み上げる溢れるような喜びが、口元に微笑を浮かべさせた。
そう出来たと思っただけで、実際はもう、唇すら動かせていなかったかも知れないけれど。
――さようなら、冬堂。
あんたを愛していた。
今度もし、生まれ変わる事があったとしたら、俺は、あんたに喜んで囚われよう。
そして身も心も魂も、全てを委ねて、自ら堕ちよう。
その永遠の獄の中へと……
最初のコメントを投稿しよう!