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それから2ヶ月後。 藤崎はいつものマンションに帰り、801号室のチャイムを鳴らす。 ロックが解除される音の後で、内側からひとりの青年がドアを開け、到着した来訪人を嬉しそうに招き入れた。 「お帰りなさい、冬堂さん」 その弾んだ笑顔に、藤崎も目を細めて見せる。 ただし青年の澄んだ瞳に、藤崎の微笑は映らない。 彼の瞳からは、光が失われているからだ。 「寂しくなかったか、裕樹。今度は1週間も帰れなかったからな」 目が不自由な彼のたどたどしい歩行を補う為に、藤崎はすぐ横を歩いて頭を撫でる。 裕樹と呼ばれた青年は甘えるように寄り掛かりながら答えた。 「寂しかったよ。でも貴方から携帯に電話が必ず掛かってたし、TVや音楽を聴いて気を紛らわせてたんだ。点字の本だってあるし…」 「そうか。点字本は堀田に新しいものを手配させている。何か読みたいものがあったら言えよ」 「うん」 長い廊下を通り、広々としたフローリングのキッチンに入ると、テーブルの上には一通りの和料理が揃っていた。 二人分の食器もきちんと並べられ、いつでも食べられるように温かい物はIH型の鍋に入れられている。 それらを見た藤崎は青年の心遣いに胸を満たしつつも、軽く眉を顰めた。 「料理をしたのか、裕樹。お前はそんな事をしなくてもいいのに」 「だって、時間があるから…。ゆっくり作れば大丈夫なんだよ。貴方だって外食ばかりじゃ美味しくないでしょう? IH型のコンロだから火も怖くないし…」 藤崎はコートを脱ぎ、スーツの上着もリビングのソファに放った後で裕樹を引き寄せ、危ないだろうとやや強い声で窘める。 少し目を離すと、裕樹はすぐにこうやって一般人と同じように動こうとするのだ。 このマンションは全てバリアフリーで、躓くような敷居は一切無く、家具の角に手を当てないようにとウレタンのガードを当て、あちこちに丸棒の手すりが設けられている。キッチンは当然ガスではなくIH型で、湯の温度すら40度以上にならないようコントロールされており、オイルヒーター式の集中暖房とエアコンも完備済み。この青年の為だけに何千万という費用を掛け、隅々まで細かい配慮を行き渡らせている。 「お前は目が不自由なんだ、包丁で手を切ったらどうする、熱くなった鍋の縁で火傷をしたら? 電話をすれば、料理などすぐにレストランから届くんだから、お前がそうする必要は無いんだ」 キッチンの椅子に座って膝に裕樹を抱き取ると、青年は悲しそうに瞳を曇らせ、泣きそうな顔になった。 「迷惑だったの…? 僕が作った料理じゃ、冬堂さんは食べたくない?」 「何を言ってるんだ、お前が作ってくれた料理を食べたくない訳が無いだろう――私は、料理の最中にお前が怪我をしないかと心配なんだ」 男は青年の左手にある、古い傷跡を辿りながら続ける。 「判ってくれ、裕樹。お前はここにも怪我をした痕がある…私はお前を二度とそんな目に遭わせたくないんだ。だから、お前は何もしなくていい」 「………」 優しく、噛んで含めるように囁かれた裕樹が、伏せた瞳のままでこっくりと頷く。 純真な童子が親の言う事を聞いているようだ。 長い睫が僅かに涙の光を帯びている様が、美しい。 アイボリーのセーターにジーンズという飾らない格好がこの青年の靭やかな体躯のラインを引き立て、藤崎の中に欲情を生まれさせた。 愛おしい、可愛くて堪らない彼に、藤崎は強く唇を押し付ける。 裕樹もそれに応え、腕を藤崎の項に回して縋り付いた。 ――その唇も、声も、姿形も、何もかもが林裕樹と同じ青年。 だが、過去の記憶と視力を失った状態で、ここに居る。 藤崎は裕樹を拳銃で撃った後、治療の過程で例の粗悪な麻薬を用い、両者を奪った。 くだんの密輸麻薬の重篤な副作用とは、視神経を侵し、記憶障害を起こさせるものだったのだ。 ※ ※ ※ 1週間眠り続けた裕樹の銃創が治癒し、意識を回復した時――すでに彼は、以前の裕樹ではなかった。 過去は白紙に戻され、瞳は何も見えない状態で目覚めた彼は、暗闇と不安だけに包まれた中で、一人の男の声を漠然と聞いた。 「自分の名前が、判るかね」 低い、物柔らかな声。 若い人間のものではなく、壮年の男のそれと、おぼろげながら裕樹は感覚的に察した。 「いいえ…僕は、一体…ここはどこですか、貴方は…」 何かを思い出そうとしても、少しも手繰れない。ちらとも記憶の形が過ぎらない。 胸に包帯が巻かれており、身じろぎすると痛みが走る。 どうやら怪我をしているようなのだが、そんな傷を負った経緯とか、何故ここに居るのかとか、頭の中を底から引っくり返しても思い当たらないのだ。 幾ら進んでも、両腕を精一杯広げても壁に届かない真っ暗な道を、当て所なく歩いているようだった。 怯え、ベッドの上で戸惑い、見えない瞳をただ見開く彼に、男は続けて言った。 「何も心配する事は無い。君は私の知り合いなのだ。君にはご両親も身内も居ない。だから私が君の世話を引き受ける」 「え…貴方が、僕の?」 「そうだ。私は君の最も近しい友人だったのだよ」 「でも、そんな…」 知人だったと言われても、この声に心当たりは皆無だ。 そのような他人に迷惑を掛ける訳には行かない。 すぐ近くに居るらしき男に触れようと、裕樹は声の聞こえた辺りの空間に、おずおずと腕を彷徨わせた。 右斜め上に伸ばした時、スーツの胸元のような所に当たった。という事は、男はベッドの横に立っているようだ。 柔らかく肌触りの良いウールの布地に触れた手を、男は確りと掴んだ。 「大丈夫だ裕樹、お前は私が守る。安心して私に任せるんだ」 「ひろき…?」 「そう、林裕樹。それが、君の名前だ」 「貴方は…?」 「私は――藤崎冬堂だ」 「藤崎さん…」 「冬堂でいい」 文字通り五里霧中の裕樹には、男のこの声と腕だけが道標であり、支えだった。 それからすぐに病院を退院するとこのマンションに連れて来られ、以降、何から何まで藤崎に助けられ、面倒を見て貰っている。 親を亡くした幼い子供のように裕樹は藤崎に頼り続け、彼に心を委ねた。寄る辺の無い非力な青年に取って、この力強い保護者が、狭い世界の全てとなった。 優しく寄り添い、常に細やかに気を遣い、不自由を感じさせないようにしてくれる藤崎に裕樹が恋情を覚えるのに、時間は掛からなかった。 同じ男の人なのにここまで惹かれてしまうなんて、自分は記憶を喪う以前から彼の事を愛していたのかも知れない…… いや、きっとそうだ。 自分達は前にも恋人同士で、だから藤崎はこうまで面倒を見てくれるのだと、裕樹は密かに心の中で見当を付けていた。 その為に裕樹は、藤崎に訊ねた事がある。 貴方の事すら忘れた自分を、貴方は怒らないのかと。 記憶を失った上にここまで迷惑を掛けて、とても申し訳ないと項垂れる裕樹に、藤崎は青年には見える事の無い、満ち足りた笑顔で答えた。 無理をしなくていい。 私は以前のお前も、今のお前も同じように愛している。 このままでいいのだ、と。 男の言葉に安心した裕樹は、鍵を探すのを止めた。闇の彼方に閉ざされ、固く封印された『過去』を開く鍵を。 胸にある傷の事も、何故己の身体がこのようになったのかも、特段訊こうとはしなかった。 大きな腕に護られている今のこの刻が、とても心安らぐからだ。 そして男に抱かれる事を覚え、その快楽を心身の隅々にまで刻み込まれ、今では魂の底まで占められている。 藤崎が居なければ生きて行けない程に。 それこそがまさに、藤崎の望んだものだった。 裕樹の心を、意識を、視界を己で占め尽くすこと。 彼の内面に己以外の存在が映らぬようにすること。 その為に、邪魔だった過去を完璧に消去し、彼から取り上げた。 あのままでは、己達の心を切り苛んで行く一方だったからだ。 実を結ばない擦れ違うだけの愛情は、どちらのそれも烈し過ぎたが為に、傷だけを深め、血だけを流させた。 けれど今の二人の間には、強い愛憎など何処にも見当たらない。 濃密な時間を紡ぎ合い、愛しさを身体と言葉で交し合うだけだ。 以前のように男は焦心に駆られる事も無い、何故なら裕樹は完全に己のものだから。 男に抱かれる事すら忘れていた彼に、その快楽を再び教えたのも当然藤崎だ。 今でこそ裕樹はマンション内で自由に動けるが、当初は何も出来なかったので、藤崎が風呂まで付き添った。 それを利用して、バスルームで肌を洗う際、軽い戯れに紛らわせる事から始める事にした。 指で身体の中を初めて探られた時、羞恥に顔を真っ赤にさせて抗った裕樹だったが、湯を浴びる度にそうやって弄ばれる内に、新しい精神もその昏い悦楽を知った。 藤崎がわざと肌を洗うだけで済ませてそ知らぬ振りをしていると、白い頬を恥ずかしそうに染めて縋り付き、無言で愛撫を求めるようになったのである。 時間を掛けて毎日その身体を慣らし、ついに2週間後に藤崎自身で抱いてやった時、裕樹は淫蕩なまでに乱れ喘ぎ、達した時は気を失った。 そうやって藤崎は、初期状態に戻された裕樹の精神を新たに一つずつ組み立てて行った。 だが今の青年も過去と同じように、時折強気な我儘を言ったりするなど、深層に片鱗が残っている。 だから以前の裕樹が完全に喪われた訳ではなく、二人は同時に生きているのだと、藤崎はそう捉えている。 ※ ※ ※ 拳銃で胸を撃ち抜かれた重態の裕樹を入院させた際、命を助けるのは結構だが、視力と記憶まで失わせるのかという顔を堀田はした。 だが、藤崎は判っていたのだ。 裕樹も、この結末を望んでいた事を。 俺を殺してくれ。あんたの手で、今すぐに。 ――あれ程に蠱惑的な誘惑を、藤崎は聞いた事が無い。 撃たれた時、藤崎の腕の中で朱に染まりながら、裕樹が口元に浮かべていた微笑。 ――あれ程に甘美な微笑を、藤崎は見た事が無い。 鮮烈なまでの印象を与えたそれらは一生、藤崎の脳裏から消える事はないだろう。 これこそが己達の辿り着くべき到達点であり、これ以外の選択は有り得なかったと藤崎は確信している。 恋人の身躯を少しでも不自由にさせるのは苦渋の決断が伴ったが、それでも得たものは期待通りの、否、それ以上のものがあった。 林裕樹という人間そのものを、彼の全てを、漸く手中にする事が出来たのだから。 もはや裕樹の中に、藤崎以外の影が差す事は永遠に無い。 あの時裕樹を6万で買った男は、すぐに処分させた。 裕樹が付き合っていた二人だけは、彼の歎きがまだ心に残っている事から、命だけは見逃してやっている。 記憶を無くした時点でリセットが掛かった“今の”林裕樹を知っているのは、彼の無垢な眼差しを知っているのは―― そう、この世に己ひとり。 「――ねえ、貴方は狡いよ……」 物思いに耽っていた男の耳朶を舐めながら、裕樹は秘密話のように耳打ちした。 「僕は貴方の顔も見えないし、過去も忘れている。だのに貴方は僕の過去も知っていて、ちゃんと僕の顔も見えているなんて……狡いと思わない?」 藤崎は頑是無い事を言う青年に、それでいいのさと唇を歪めた。 「こうして私はここに居る。触れる事も出来る。私の顔に触れる事が出来るのはお前だけだ、裕樹」 「ふふ…」 鋭い頬に指先を滑らせて、高い鼻梁や秀でた額を確かめる裕樹は、満足そうにくすりと笑った。 男の髪に何度も指を差し入れ、梳いた後で、自分から顔を近付けて、探り当てた口元に接吻する。 滑らかな項や手首は、仄かにロリス=アザロの薫りを漂わせていた。 この薫りを纏うのを、男が好んでいるから。 唇と舌先が名残惜しく離れた時、裕樹が低い声で言った。 「ねえ、冬堂さん……僕を置いて行かないでね」 「ああ」 「貴方に何かあったら、僕、生きていられない。貴方が居ない人生なんて、考えられない……」 何という甘やかな囁きだろう。 この唇からそれこそを聞きたかった。 その為に歳月を費やし、互いに刃を向け、愛し傷付け合った果てに多大な犠牲を払ったのだ。 「お前を置いて行ったりしない。私に何かあれば、お前もすぐに私の傍に来させるよう手配してある」 危険が多い日常、いつこの生命が尽きるか知れはしない。 藤崎が死ねば裕樹も殺させるように、堀田に厳命してある。 忠実な腹心は、必ずその命令を守る筈だ。 唇が再び重なり、手と身体の動きが淫靡なそれに変わり、官能の高揚だけを引き寄せる。 裕樹は死の匂いに陶酔したかのように、接吻の合間にふわりと言った。 「苦しくない、痛くない方法にしてね……」 「ああ」 「貴方の傍に、すぐに行けるようにしてね」 「判っている」 殺してくれと言った時と同じ、満たされた笑み。 愛していると、命も何もかも全てが貴方の為にあると、それは語っている。 その微笑を眺めながら、藤崎は頷いた。 ――己の生命も同様に、この青年の為だけにある。 運命を今度こそ我が手に収めた男の唇には、眼前の恋人と同じ微笑が浮かんでいた。 ―Fin―
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