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二、黒子デビュー
煌は小部屋に放り込まれた。
「とりあえず、ここでおとなしくしといておくれよ。ちょいと座頭に意見を仰いでくるからさ」
女性は不敵に笑って、木戸を閉めてしまった。辺りは闇に包まれる。試しに戸を引いてみたが、当然外から鍵が掛けられている。
「はぁ、なんでこんなことに」
煌は力なくその場に腰を下ろした。明かりもないので、部屋の様子も分からない。狭い部屋だということは分かるが、むやみやたらに動きまわる気にもなれない。
煌はもう一度深いため息をつく。
もしかしたらこれは夢なのかもしれない。いや、舞台の初日に大失態を犯したこと自体が、そもそも夢なのだとしたら。
「そんな都合がいいわけないか」
煌は自嘲気味につぶやいた。座頭という人に事情を説明すれば解放してもらえるだろう。それまでおとなしくしていたほうがよさそうだ。
舞台上にたった一人佇んでいた。
スポットライトが自分だけを照らしている。客席から注がれる視線。皆がこちらに注目している。失敗はできない。次に繋げるためにも。
なのに身動き一つできない。声が出ない。
「君に役者は向いていないよ」
スポットライトがもう一人の人物を照らし出した。悠真だ。
主役である佐伯秋人の衣装を身に纏った悠真は優美に微笑む。
「やめてしまえ。君にできることはもう何もないよ」
自分にはこれしかないのだ。やめたくない。他の生き方なんて出来ない、したくない。役者になることしか、演技のことしか今まで考えてこなかった。それさえ奪われてしまったら、自分には何もなくなってしまう。
叫びたいのに声が出ない。空気を無駄にむさぼることしかできない。苦しい。苦しくて、痛い。
煌を照らしているライトが少しずつ薄くなっていく。細くなっていく。消えてしまう。自分の存在も居場所も何もかも――!
はっとして目を開ける。
薄ぼんやりと部屋の様子が見えた。
「ここは」
意識がはっきりしてくる。
「そうだった、俺はここに閉じ込められたんだった……」
いつのまにか寝てしまっていたらしい。やはり夢ではなかった。舞台で失敗したことも、この奇妙な場所に迷い込んでしまったことも。
髪をくしゃっとかき回しながら、煌は立ち上がる。
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。
固く閉じられた明り取りの隙間から光が漏れているおかげで、部屋の様子を把握することができた。
ということは夜が明けたということだろう。連絡を入れられないまま、時が過ぎてしまった。今日の公演は夜に一回、ソワレのみとなっている。
スマホはやはり電源がつかない。
「どうせ代わりはいくらでもいるんだし」
投げやりにつぶやき、煌は辺りを見渡した。
天井はそんなに高くない。
畳八畳ほどの部屋だ。壁にはずらりと棚が並び、きちんとたたまれた簡素な着物が幾つも重ねられていた。
「ここは衣裳部屋なのか」
そうだ、ここは市村座という劇場なのだ。そういう部屋があってもおかしくはない。
「それにしても、変わってるな」
ハンガーに掛けるわけでもなく、棚にたたんであるとは。それも和服しかないように見える。
興味をそそられ、適当な一着を手に取り広げてみる。
「これは」
そのときだった。
錠が外される音がして、木戸が勢いよく開いた。とたんにがやがやとした喧騒が耳に舞い込んでくる。
ろうそくを手にした小太りの男と目が合った。
「何やってるの、そんなところで」
見知らぬ男は丸い顔に丸い目をしばたかせている。彼の姿もまた和服姿で、鶯色の着物の裾を端折り、股引をはいていた。彼も役者なのだろうか。それもろうそくとは、だいぶ変わっている。この衣装部屋には確かに電灯がないのだが……。
「あの、昨夜女性にここで待つように言われたんですけど。結局朝まで誰も来なくて」
「え? 女性って誰に」
「名前は知りません。着物の帯に鈴をつけた女性です」
首を傾げる男に、煌は続けた。
「ものすごく美人でした。あんなに着物が似合う女性、初めて見たかもしれないっていうくらいに」
「ああ! 君菊(きみぎく)さんのことかな」
分かったとたんに男は人の良さそうな笑顔を見せた。
君菊。それが彼女の名らしい。かなり古風だ。芸名かもしれないけれど。
「もしかして、君は新人さんかな? 君菊さんを知らないなんて」
「いえ、そうではなく」
「でも君は運がいいよ。めったに君菊さんと話をすることなんてできないんだから。なんたって君菊さんは立女形なんだからね!」
「はぁ」
相手は目を輝かせて話すが、煌は気のない返事をする。
ここの人たちは皆、人の話を聞かないらしい。
「ははぁ、もしや君菊さんにからかわれたね? よくあるんだよね。あの人、ああ見えて無邪気だから」
思えば、確かに面白がっていたように見えた。それで一晩もここに閉じ込められるはめになったのだとしたら、迷惑極まりない。
まったく理解できない状況と相まって、煌はだんだんと腹が立ってきた。
「とにかく、俺はもう行きます!」
いくらか強い口調で言うと、煌は部屋を出て行こうとするが、またも阻まれてしまう。
「一体何なんですか!」
「それはこちらの台詞だよ。君菊さんに袖にされて悔しいのは分かるけど、仕事さぼっちゃあ駄目だよ」
「は?」
煌は不機嫌もあらわに眉を寄せる。
「早くそれに着替えて、準備してくれよ。もうすぐ演目が始まるんだから」
男は煌が手にしている黒い衣装を指さした。
「ああ、これはお返しします。勝手に触ってしまってすみません」
憮然とした態度で服を突き返すが、男は取り合わなかった。
「駄目ったら駄目。せっかく市村座にかかわれるんだから、そんな簡単に投げ出したらもったいないよ。それに江戸で一番人気の演目、助六の初日なんだよ! 人手がいくらあっても足りないんだから。ほら、そんな変な格好をしてないで早くこれ着て。ほら!」
男はひったくるようにして衣装をつかむと、服の上から無理やり袖を通させる。
「な、ちょっと! だから俺は無関係ですって!」
抗議も虚しく、男は衣装に身を包んだ煌の背中を押し、和服の人々がせわしなく行き交う廊下に突き放すと、どこかへ行ってしまった。
そこにすかさず声が掛かる。
「そこの道具方! こいつを舞台に運んでおいてくれ!」
強引に押しつけられたのは、両手で抱えるほどの大太鼓だった。
「いや、俺は違うんですってば!」
断る声を聞く前に、道具を押し付けた男は慌ただしく去っていく。
勘違いをされてしまうのは仕方なかった。なぜなら煌が今身に纏っている(無理やり着せられた)のは、黒子の衣装だったからだ。
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