二、黒子デビュー

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「何で俺がこんなことを」  憮然としながらも、煌は大太鼓を抱えながら人の間を縫う。侍姿の者や、花魁に扮した者たちとすれ違う。華やかな往来の板の間を進んでいき、昨夜一度足を踏み入れた舞台へと向かった。  舞台裏にたどり着くと、すぐにこっちだと声が掛かった。  上手に設けられた板囲いに、煌は大太鼓を置く。 「ありがとよ」 「いえ」  反射的に返事をしてしまったが、妙な心地だった。この場所には他にも和太鼓が置かれており、龍笛や鼓、三味線を手にした人たちもいる。ここで演奏をするらしい。  紺色、橙色、緑色の弾幕が舞台と客席の間に設けられているところからすると、やはり上演されるのは歌舞伎だろう。  客席からも騒がしい声が聞こえてくる。もう客が入り始めているのだろう。それにしても賑やかだった。歌舞伎の劇場とは、そういうものなのだろうか。 「そういえば助六と言っていたな」  煌は歌舞伎についてはあまり詳しくはないが、演目の名前と内容くらいは知っていた。『助六由縁江戸桜』、確かに有名な演目である。 「俺にはあんまり関係ないか。今度こそ帰ろう」  そういえばショルダーバッグも衣裳部屋に置いたままだった。貴重品はもちろんだが、中には擦り切れるほど読み込んだ台本も入っている。……もう、関係ないのかもしれないけれど。 「おーい! そこの新人! こっちを手伝ってくれ!」  その場を去ろうとする煌の背中にまたも声が掛かる。  煌は無視を決め込み、踵を返そうとするが、その腕をつかまれる。 「呼ばれてるぞ。新人。それでなくとも初日は人手不足だ。逃げるのは今日が終わってからにしてくれ」  口振りからして、この仕事に匙を投げてしまう輩も多いようだ。 「もういい加減にしてほしい……」  煌のつぶやきは虚しく喧騒にかき消されていく。 「はっはっは。なんだ、もう疲れたのか。若いのにだらしがない。とにかく今日だけは逃げるなよー」  通り過ぎざまに今度は別の人からも言葉を投げかけられていく。 「何なんだよ、どいつもこいつも逃げるなって」  すでに舞台から逃げ出そうとしている煌にとって、いちいち心に突き刺さってくるのだ。  夜公演までにはまだ十分に時間がある。煌はもうやけだった。 「何ぼうっとしてんだ! 早く来い!」  とうとう怒声が飛ぶ。煌は返事をすると足を向かわせるのだった。  幾度も芝居小屋の中を往復させられ、大道具の設置や小道具を役者に届けたりと、忙しく走り回った。  そうしてようやく準備が整った。とうとう幕が上がるようだ。  煌は舞台の裏からその様子を見ていた。  拍子木の音が響くと、それを合図に幕が引かれていく。 「す、すごい……」  あらわになった客席に煌は目を見開いた。升のように区切られた客席は人、人、人、で溢れ返っていた。ここの劇場は暗転の中で静かに観るのではないらしい。縦横無尽にひしめき合っているという言葉がぴったりな光景だった。  観客の服装はやはり一様に和装だった。昨夜見た、江戸時代にタイムスリップしてきたかのような人々と大差はない。 「タイムスリップ……まさかな」  急に浮かんできた言葉を否定する一方で、動揺している自分もいる。  幕が引かれると、楽の音が一気に非日常の雰囲気へと人々を誘っていく。それに唄が加わり、劇場内が別世界となって観客たちを引き込んでいく。  やがて設けられた花道に役者たちが登場する。  花魁道中のような華やかさの中心にいるのは、昨夜煌を部屋に置き去りにした女性だった。いや、歌舞伎なのなら、女性ではなく女形だ。  客席がその美しさにどよめく。 「えっと……君菊さん、だっけ?」  勝手に芝居小屋に入ってしまったとはいえ、衣裳部屋に閉じ込められたあげく、朝まで放っておかれたのだ。後で文句を言ってやらないと気がすまない。  しかし、そんなささくれた気持ちは、君菊の演技でがらりと変わってしまった。  花魁に扮した君菊が、若者の肩に手を置いて艶やかに優雅に花道を行く。黒い高下駄でしゃなりしゃなりと、それでいてまっすぐ前を見据えて歩くその姿に、煌は目が離せなくなった。  黒地の着物に、金糸で豪華に描かれた菊花や梅花が散りばめられた打掛、肩からは滝のような金色の注連縄を流し、とても豪勢だった。  結い上げた髪にはべっ甲のかんざしが幾重にも差してあり、それもまた美しさを際立たせていた。  彼女から揚々とした声が響いたとたん、辺りはしんと静まり返った。華奢で、美しい顔立ちからは想像できないような堂々とした演技で、物怖じしない、気風のいい女性を見事なまでに演じきっている。そこに少しの迷いもぶれもない。  芝居に引き込まれていく、魅了されていく――。  完璧に言葉の意味が分かるわけではないが、内容は知っていたので何となく見当はついた。  圧倒的な存在感と艶やかさを誇る君菊に、煌はただただ見入り、立ち尽くした。  幕間に入り、またも裏方は忙しくなる。  しかし煌は素早く衣裳部屋に戻りバッグをつかむと劇場の外に飛び出した。もたもたしているとまた仕事を頼まれてしまう。そんなことをしている場合ではないのだ。舞台を降板することについて、まずはマネージャーに相談しなければならない。  しかし煌ははたと足を止めた。  少し時を置いて冷静になったせいか、多くの人に迷惑をかけようとしていること、そして自分の夢が断たれるのだという現実が重くのしかかってきた。だからといって今のまま、舞台に立ち続ける勇気も自信もない。 「俺から芝居を取ったら何も残らないのに」  ふと、先ほどみた君菊の演技が頭をよぎっていく。とても華やかで、美しく、周りを幽玄の世界へと否応なく巻き込んでいく。あんな風に演じることができたら。  けれど自分には無理だ。才能も実力もないのだから。  しがみつくことが出来ないのなら、違う道を探していくしかない。  煌は力なく歩き出す。  黒子の衣装はそのまま着ていることにした。もともとの服装でいたほうがここでは目立ってしまう。昨夜のことがいい例である。煌は身震いをした。  けれどまさか本当に江戸時代というわけではないだろう。  その思いは見事裏切られることとなった。  昨夜は薄暗くて実感がわかなかったが、昼の往来もまた時代劇のセットの中に迷い込んだようだった。近代的な建物は一つもない。道行く人々、老若男女皆着物姿である。 「馬鹿な……。そうだ、ここだけそういうテーマパークみたいになってるんだな、そうだよな」  と、誰にともなくつぶやき、煌は先へと歩を進める。  茶屋や、出店が軒を連ねているのを横目に煌は足を速めた。  しかし一向に景色が変わることはない。  人の様相も変わらない。  悔しくなり、煌は走った。とにかく走って、見慣れた景色を探した。コンクリートで舗装された道は、車は、信号は、ビルは――!  息が上がるまで走り抜け、顔を上げる。  さっきまでの賑やかさとは違う、静かな川沿いに出ていた。 「隅田川、だよな」  舟が何艘も行き交っているが、それも煌が見慣れている光景ではない。長い棒を持った船頭がゆったりと舟を進ませている。中には白い帆を張ったものもある。 「嘘だろ……」  ふらふらとした足取りで、ほとんど惰性で川沿いを歩く。多くの舟宿が軒を連ねていた。本当に江戸時代に来てしまったというのだろうか。  嘉永六年だと昨夜女性が言っていた。江戸時代後期の元号だったはずだ。詳しく調べたいところだが、スマホの電源は切れたままだ。江戸時代ならばそもそも使い物にはならないだろうけれど。  煌は大きな橋の欄干に肘をつき、途方に暮れた。この木造の橋だって、現代のものではないことは一目瞭然だった。  どのくらいそうしていただろうか。煌の思考が重い腰を上げるように動き出す。  もし本当にここが江戸時代ならば。  煌の帰る場所はここにはないということになる。  そうだとしたら、かなりまずい状況だ。このままでは遅かれ早かれ野垂れ死にである。ならば市村座で、道具係になりすましていたほうがいいのかもしれない。  それに一つ、気掛かりなことがあった。消えた黒猫が首から下げていた鈴と、君菊が帯につけていた鈴。よく似ているような気がしてならなかった。  もちろん、鈴なんてどれも似たようなものだが、惹きつけられる独特な響きがあった。もしかしたら、その鈴が元の世界に戻れる鍵を握っているのかもしれない――。  気持ちはまだしっくりこないし、完全に信じたわけではない。でも行けども行けども一向に景色は変わらないのだから仕方がない。煌は来た道を引き返すことにした。
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