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驚くべきことに、芝居が終わったのは夕方だった。朝から日暮れまで、一日がかりで上演されるらしい。途中何度も幕間があったものの、一日のほとんどを忙しく動き回るはめになった。ここを追い出されてしまっては行くあてがないだけに、とにかく指示されるがままに従った。たくさん怒鳴られはしたが、煌にとってそれは慣れっこだった。
舞台に立つまでに何度演出家や講師に罵声を浴びせられたことか。養成所に通っていた二年間の中で、実に様々な人たちとかかわってきたのだ。その経験のおかげで風のようにやり過ごせてしまう。
あの日々は、今思えば本当に輝いていた。どんなにつらいことを言われても、それでも立ち上がって前へ進めた。確固たる目標が、目指すべき場所があったからだ。――夢はつかむまでが一番いいのかもしれない。いや、自分はまだつかんでもいない。つかみ損ねたと言ったほうが正しいのかもしれなかった。
煌は時折頭をもたげてくる悔しさとやるせなさを無理やりに隅に追いやると、君菊を探すことにした。鈴や黒猫のことについて何か知っているかもしれない。
舞台が終演を迎え、少しだけ慌ただしさがやわらいだ板の間で、煌は適当な人に君菊の居場所を尋ねてみた。
「ああ、あの人なら楽屋にいるんじゃないのかな。二階の立女形の楽屋ね」
場所も教えてもらい、煌は一階から二階へと上がる。楽屋へ料理を運んでいく人とすれ違った。
君菊はこの一座の中でも、別格の役者らしい。他の役者たちは共同で使っているらしいが、彼女――いや彼には専用の部屋があるのだから。
「そうだろうな。あの演技は並大抵じゃなかったし」
初めて歌舞伎を生で観たが、君菊の艶ややかさは忘れられない。視線だけではない、心まで強く惹きつけられた。美しさもさることながら、彼女を取り巻く凛とした空気、厳かさ。
圧倒的な演技を見せつけられては納得せざるをえなかった。どうしたらあんな風に演じることができるのだろう。人を惹きつけられるのだろう。
君菊の楽屋らしき場所は、藍染ののれんがかかっていた。
「君菊さん、いらっしゃいますか?」
声を掛けるが返事はなかった。隣の大部屋から、白塗りの女性、いや男が顔を出す。化粧を落としている最中だったのか半分肌の色が見えている。女形の着物もだいぶはだけていて、煌はぎょっとしてしまった。
「君菊さんは今いないよ」
低い声音で男は言う。
「どこに行ったのか分かりますか」
煌はどぎまぎしながらも尋ねる。
「隅田川の桟橋じゃないかい? ここから一番近い桟橋だよ。あの人よくあの場所で物思いにふけっているみたいだし」
「そうですか。ありがとうございます」
煌は礼儀正しくおじぎをする。
「よく見たらあんた、可愛いわね。役者見習いかい?」
「ま、まぁそんなところです。失礼します!」
煌は伸びてくるごつい腕を軽くかわすと、そそくさとその場を去った。
市村座から近い桟橋は幾つかある。探し歩いて、ようやく佇む人影を見つけた。
「君菊さん!」
煌は君菊だということに疑いもせずに近づき、はたと立ち止まる。
家屋に下がる提灯の明かりが背後から薄く伸びているが、辺りは薄墨を張ったようだった。
「君菊さん……?」
雰囲気が少し違うような気がして、煌は目を凝らした。
着物の色は濃紫だろうか、白い帯を締めている。
目の前の人物はこちらに背を向けたまま、短く嘆息した。
「今は君菊じゃないよ。その名で呼ばないでほしいね」
相手はゆっくりと振り向いた。
肩より下の黒髪を低い位置でゆるく一つに束ねているので少し様相は違うが、薄闇でも分かるくらいの端正な顔立ちは、君菊の面影を残していた。
女形の格好をしていなかったので、煌は面食らってしまった。
「えっと……」
「今は伊月(いつき)。君菊は女形のときの名だから、そのへん使い分けよろしく」
相手はけだるそうに頬にかかる髪を弄びながら言った。
「は、はい。分かりました」
とは言ったものの混乱してしまう。君菊も伊月も同一人物なのだが、纏う雰囲気がまるで違う。共通しているのは美しく艶やかということだろう。
「本当に君菊さん……ですか?」
「そうだよ。信じられないかい?」
「あまりにも別人みたいで……。やっぱりすごいや……」
一人感心する煌を見て、伊月は切れ長の目をしばたかせていたが、やがて表情を和らげた。
「ははは。面白いね君は」
小気味よく伊月は笑う。線は細く、色白で女性的だが、爽やかな男らしさも感じる。今初めて会ったのだとしたら、伊月を女形だとは思わなかっただろう。
「って、それはそうとひどいじゃないですか!」
「何がだい?」
飄々と首をかしげる伊月に、煌は続ける。
「衣裳部屋に閉じ込めておいて、朝までほったらかしなんて! 一体俺が何をしたっていうんですか!」
「ああ、君はあのときの少年か。そういえばそうだったね。いや、すまない。すっかり忘れてしまっていたよ」
「はい?」
煌は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「あの後、座頭に相談しに行こうと思ったんだけどね、美味しそうな団子の差し入れがあってさ」
「それで俺のことを忘れてしまったってわけですか」
「そうそう。って、そんなこわい顔しないでおくれよ。だいたい勝手に芝居小屋に忍び込んだ君も君なんだから」
「あれは……不可抗力というか、何というか」
「で、その黒子の格好は何だい?」
勘違いされて道具係の仕事をさせられ、一日走り回ったことを話した。
「ははは。それは災難だったね。仕事は大変だったかい?」
「それはもう、一日中走り回されましたし!」
「それで結局、一日最後まで仕事をやり遂げたっていうんだから、真面目なんだか間抜けなんだかよく分からないな」
伊月は笑いを噛み殺している様子だ。
確かに自分でも阿呆だとは思う。それでも行く場所がないのだから仕方がない。
「話がそれたような気がするんですが」
「おや、そうだろうか」
明後日の方向を見る伊月に、煌はそれ以上文句を言う気も失せてしまった。どこか憎めない人だ。
「あの……黒猫を知りませんか」
煌は本題を切り出した。
「ん? 何の話だい?」
「伊月さんの鈴と同じものをつけた黒猫がいたんです」
「これかい?」
伊月は帯の鈴を手に取る。
「さあ、黒猫なんて知らないねぇ。猫になりたいって思ったことはあるけれど」
悪戯っぽく笑ってみせる伊月に、煌は肩を落とした。あの猫が見つかれば、元の世界に戻れると思っていたのだが。
当てが外れてしまうと、急に膝に力が入らなくなり、煌は情けなくもその場にしゃがみこんでしまった。
「はぁ……」
相当気を張っていたのだが、ここまで来て一気に糸が切れてしまったようだ。
「大丈夫かい?」
伊月は心配そうに煌の前に片ひざをついた。そのとき、煌の腹が鳴った。
「お腹空いた……」
思えば昨夜から水以外口にしていない。それで一日働き詰めだったのだから当然だった。
「仕方ないねぇ。何か食べに行くかい? 腹を空かせている少年を放っておくことなんてできないからね」
「……でも俺、お金持ってません」
荷物は芝居小屋に置いたままだった。あったとしても現代のお金が江戸時代で通用するわけがない。
「ごちそうするよ。閉じ込めたままにしていたお詫びってことで。ほら立って」
「……すみません」
力なく煌は答えるのだった。
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