一、鈴の音、前夜

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一、鈴の音、前夜

 とある前夜。  風が花びらを誘い、桟橋に佇む男の手の平にひらりと落ちた。  同時に着流しの帯にくくりつけた鈴が、しゃらんと鳴る。  まるで何か不思議なことが起こる前触れのような、そんな夜だと男は思った。この窮屈な世を打ち砕く出来事が起こりはしないかと、常に心のどこかで願っているのだ。  自分のことを奔放だと人は言う。そう振る舞っているのだから、反論はない。しかし心には嘘をつけなかった。限られた自由しか、自分にはないのだ。 「面白いことが起こる気がする、なんてね」  口に出せば、現実になるだろうか。柄にもなくそんな夢見がちなことを考えてふっと笑う。  鈴が今一度、音を立てた。  花冷えのする夜に吸い込まれていくように――。  どうしてこんなことになったのか。  桐谷(きりたに)煌(こう)は眩暈を感じながらも、必死に頭の中を探った。しかし何も浮かんではこない。完全に思考はストップしてしまっている。  重苦しい静寂がまるで時を止めているようだった。薄闇から感じる多くの視線が、立ち尽くす煌をさらに追い詰めていく。 「何黙ってんだよ。俺を説得しに来たんじゃないのか。このままじゃ悪の道まっしぐらだけど?」  見かねた主役の機転で、とたんに客席から笑い声が湧く。  すると今まで固まっていた思考がゆるやかに動き出した。せき止められていた台詞がやっと口をつく。 「君にだけは道を踏み外させるわけにはいかないんだ。例え罪を犯してでも、僕は君を止める。夢をしっかりとその手でつかんでもらいたいからだ。未来をまっすぐに見据えてもらいたいからだ。君の歌声は多くの人々を魅了する。人の心をつかんで離さない。それはもう、才能の域だ」  煌は恍惚とした表情を浮かべてみせるも、やるせなさでいっぱいだった。  少しも役に入っていけない。今発している声も台詞と呼べるものではなく、ただの言葉の羅列みたいにからっぽだ。 「君は今の時代に、そしてこれからの時代にも必要とされる歌手になる。こんなところで立ち止まっていていい男じゃないんだ。君のことを待っている、まだ見知らぬ人たちがたくさんいるはずだよ。僕はこの命を懸けてでも、君に夢をつかませるつもりだ――!」  幕が閉じられた舞台裏で、煌は不甲斐なさと情けなさに打ちひしがれていた。  白いライトが、黒い壁や雑然と置かれている道具たちを浮かび上がらせている。明治時代の洋館をイメージしたセットだ。窓、植木、テーブルや椅子、ベッド。どれもこの舞台のために精巧に作られたものだった。  公演が終わった後でも、舞台裏では人がせわしなく行き交っている。  西洋の衣装を身に纏った役者と、Tシャツにズボンというラフな格好をした裏方とが入り混じる様は、いつ見ても奇妙だった。役を終えたばかりの自分も、ブラウンの洒落たチョッキにブラウス、ズボンにブーツという、西洋風の格好をしている。  ここは現実と夢とが交差する場所だ。  煌は彼らに何も言うことができないまま、力なくその場を離れるしかなかった。  楽屋に向かう足が重い。部屋までの廊下がやけに長く感じた。メイク部屋兼楽屋は男女別になっているが、他の俳優たちと共同で使っている。皆と顔を合わせるのが億劫だった。 「おいそこの」  背後から声を掛けられ、煌は足を止める。 「初日からこれじゃ、先が思いやられるな」  主演俳優の安藤(あんどう)悠真(はるま)だ。タキシードに身を包み、白手袋をはめていた。背もすらっと高く、佇まいも自信に満ち溢れている。  彼は二十半ばにして大劇場の主演を何本も務めてきた実力の持ち主だった。  悠真は主役の佐伯(さえき)秋人(あきと)役で、煌はその親友役である西條(さいじょう)佑(ゆう)を務めている。作中ではキーパーソンなだけに、本来なら完璧に演じなくてはならない役どころである。 「すみません」  さっきのミスだけではない。煌は舞台中何度も台詞が飛び、そのたびに先輩俳優たちの機転に助けられた。どうにかこうにか演じきったものの、達成感など少しもない。 「台詞も硬いし、熱もこもっていない。少しも演じきれていないじゃないか。今まで何をやってきたんだい?」  うつむく煌の顔をのぞきこむようにして、彼は言う。その目を見て、煌は悟ってしまう。相手は完全に自分を小馬鹿にしているということ。このまま引き下がってはいられない。 「それでも俺は、配役が決まってからの二か月間、ずっとこの舞台だけを考えて稽古に打ち込んできました。手を抜いてるつもりはないんです。それなのにこんな出来で、本当に申し訳ないと思っています」 「それは知っているよ。毎日稽古で顔を合わせていたんだから。けれど本番で出来なきゃ意味がないんだよ。稽古をさぼっていたというならまだ救いはある。けれど君は違う。本気で稽古に臨んで、それでも出来なかった。これがどういうことか分かるかい?」  相手の目が残酷に光った。  優男風なのに視線は冷たく、そのギャップに射すくめられそうになる。  彼からの次の言動に備えて、煌はいくらか身を固くした。 「才能がないってことなんだよ。君は役者に向いていないんだ。やめてしまえよ。心配することはない、あれくらいの役なら代わりはいくらでも立てられる。皆、プロだからね。稽古を見学していた新人だってたくさんいるんだ」  悠真はとびきり優しい笑顔を向けて、立ち尽くす煌の横を通り過ぎていく。 「……これが、初舞台なんです。失敗することくらいあるでしょう!」  拳を握りしめながら、その背中に叫ぶ。  悠真は立ち止まり、こちらを見ないまま言った。 「そもそも、上へとのし上がっていく奴は、初舞台でつまずいたりはしないものだ」  遠ざかっていく背中に、今度は何も言えなかった。  最低だ。自分は自分に言い訳をした。  初舞台だから仕方がないと、妥協しようとした。  精一杯の努力を唱えても、それは結果でしか示せない。観客には何も伝わらないのだ。  悠真から放たれた言葉が深く刺さっていく。  唇を噛みしめ、楽屋に走りさっさと着替えると、メイクを落とす。そして誰とも口をきかず、目も合わさずに、カバンを肩に掛けると駆け去った。  煌は、劇場から逃げ出したのだった。  途方に暮れながら街灯照らし出す道をそぞろ歩く。ふいに視界に小さな何かが映る。ふらつくように足元に落ちたのは桜の花びらだった。 「そうか、桜の季節か」  ここ数か月、オーディションから始まり、初舞台のことで夢中だったため、季節の移ろいなど気にも留めていなかった。 「向いていない、か」  星一つ見えない空を仰ぐ。辺りの喧騒なんてまるで耳に入らない。  煌は中学校卒業と同時に役者を目指して上京した。  劇団アリアの入団オーディションを突破して、研究生として所属することになったからだ。アルバイトをしながら、養成所に通う日々を二年間続け、十八歳になってようやくつかんだ初舞台。  公演名は『時をつなぐ夢』、物語の舞台は明治初期の日本。外国に渡り洋楽の魅力に取りつかれた男が帰国し、明治の日本で歌手になるべく奔走するストーリーである。  舞台俳優を目指すなら誰でも憧れる大劇場での演目だった。  ライバルたちを勝ち抜いてオーディションに受かり、西條佑役が決まったときには飛び上がるほどうれしかった。今まで生きてきた中で、きっと一番だ。  厳しい言葉は、養成所時代や舞台の演出家から今まで何度も受けてきた。それでも心が折れなかったのは、舞台に立つという確かな夢があったからだ。  その夢が、簡単に崩れ去ってしまった。台本が擦り切れるほど読み込み、稽古に稽古を重ね、必死に西條佑になろうとした。  ゲネプロでは確かな手ごたえを感じたはずだった。なのに。満席の劇場は、空気ががらりと変わっていた。まるで別世界のようだった。初舞台、初配役で絶対に失敗はできないというプレッシャー、目の肥えた観客たちに認められなければ次はないのだという焦り。役者は実力で一つの舞台から、次の舞台へと繋げていかなければならない。  西條佑の言葉や一挙一動に、観客たちの視線が動くのが分かった。  途端に頭の中が真っ白になった。  舞台に立つのが、こわい。また台詞が飛んでしまったら、何も出てこなくなったら――。  こわくてこわくて仕方がなかった。  誰もいない広い舞台に、たった一人で取り残されような孤独を味わってしまった。あの感覚が一瞬で煌を凍り付かせてしまっている。 「俺には……才能がない」  才能がなければ努力すればいい。しかし努力しても駄目ならば。  今の自分には挫折感しか残ってない。  一人うなだれて、再び足を進めた時だった。どこからともなく、黒い影が煌の前に躍り出た。しゃらんと耳に心地いい音を響かせ、漆黒をまとった猫は長い尻尾を優雅に揺らして、こちらを見上げていた。  野良猫ではないらしい。首からは朱色の紐にくくられた鈴が下がっている。 「どうした、こんな夜遅くに。迷い猫かな」  撫でようとするその手をすり抜けて、黒猫は軽く身を翻した。そして再びこちらを意味深に振り返る。 「ついてこいって?」  煌がつぶやくと、それに答えるように黒猫は長い尻尾をくゆらす。  何だか猫にまでも小馬鹿にされているように感じたが、投げやりな気持ちで煌は足を動かした。 「いいや、もうどうでも」  半ばやけだった。阿呆らしいと思いながらも、煌は猫を追った。このやり場のない思いを振り切るように。  いつしか隅田川沿いにさしかかった。  桃色の明かりが桜に沿ってしっとりと幻想的に光を落としている。辺りはいまだに賑やかだが、凛と並ぶ桜が喧騒を吸い込んでいくようだった。  ふいに、漆黒の猫は軽やかに地面を蹴ると、颯爽と走り出した。やはり追わなければならない衝動に駆られ、煌もその後を駆けていく。  黒猫は足を止めない。跳ねるように走っていく。  煌は夢中で後を追いかけた。理由は分からない。ただ無心だった。情けない自分を、さっきまでの出来事を、忘れたかったのかもしれない。  過ぎていく景色に違和感を覚えたのは、それから間もなくのことだった。 「あれ……?」  足を止めた煌は、辺りが暗くなっていることに眉を寄せる。  さっきまで微風に揺れていた桜は姿を消し、人の往来までもが息をひそめていた。川べりだということは、水の流れる音で分かるくらいで、とにかく景色も闇に覆われていた。  さっきまで前を意気揚々と駆けていた猫も、闇に乗じてしまったのか姿が見えなくなっていた。  川面から時折冷たい風が吹いてくる。  静けさと闇も合わさり、うすら寒い心地がする。 「一体どこまで来てしまったんだろう……」  小さくため息をついて、ずり落ちかかっていた斜め掛けのショルダーバッグを直すと、ゆっくりと歩を進める。  それにしても暗すぎである。  どう視線を巡らせても辺りは闇一色だった。暗さに目が慣れてきても、川に沿って柳が揺れているのが分かる程度だ。その枝の不気味な動きに煽られるように、煌は慎重に足を動かした。  すると前方に明かりが見えた。近づくにつれぽつりぽつりと無数に見え出してくる。 「よかった。道に迷ったのかと思った」  猫を追いかけて迷子になるなんてと呆れてしまう。  異様な暗さに不安を覚えていたが、ほっと胸をなでおろすと煌は迷うことなく明かりを目指した。  しだいに賑やかさを感じられるようになった。しかし、行き交う人々を見て、煌は絶句し立ち尽くした。 「な、何なんだよ一体」  髷を結った着流しの男が、うさんくさげな視線を寄越しながら通り過ぎて行った。談笑しながら連れ立って歩いて来た二人組も、髷を結った和服姿だ。  女性たちも皆、色鮮やかな着物を身に纏っている。薄明りにもその色がよく映えていた。彼女たちも口元を覆って、不思議そうに煌を見遣っていく。  提灯を携える者、頭巾を被る女たちや、袴姿の男たち。 「ここは、コスプレ会場なのか。それとも何かのイベントか何かか……?」  もちろんその問いに答える者は誰もいない。  人々の格好もそうだが、動作一つとってもリアルで、仮装をしているようにも見えない。カメラも回っている様子はない。 「じゃあ何なんだよほんとに」  何、しか出て来なくなってしまった煌は、目をしばたかせながらふらふらとした足取りで人々の間を縫って歩いた。  どうやらこの不可思議な人々は、前方の開け放たれた木戸から出て行くところらしい。木戸の奥にも道が続き、そのまっすぐな道を囲むように二階建ての木造の家屋が並んでいる。軒下には提灯が整然と雰囲気漂う光を落としていた。  木戸に近づくにつれ人も増え、一人逆方向を行く煌は人の波をかき分ける羽目になった。そのおかげで一人だけ違う格好をしていることは目立たなくてすんだのだが。  息苦しさを覚えるほどの人波から、やっとのことで飛び出した場所は、とある建物の前だった。  屋敷の中心、瓦屋根の上にはそれは大きな櫓がどっしりと構えていた。櫓には布が巻いてあり、丸い縁取りに花のような模様が描かれている。櫓の下にはずらりと絵画が並んでいる。どれも浮世絵風であったが、煌にはよく分からなかった。  歌舞伎座にも似ている気がするが、まったくの別の建物だ。 「ここは一体どこなんだ」  自分のつぶやきもどこか遠くに吸い込まれていくようだった。あまりに現実離れした光景に、ぽかんと櫓を見上げていると、背後から弾んだ声が飛び交った。 「変わった格好をしたお兄さんだねぇ」 「もしかして役者さんかしら」  思わず振り向くと、すでに数名の女性たちが興味津々でこちらを眺めていた。目が合ったとたん、彼女たちの好機に満ちた瞳が爛々と輝いた。 「あら」 「まぁ!」 「ずいぶんと男前だこと!」  着物姿の女性たちはおしげもなく距離を詰めてくる。煌はじりじりと後ろへ下がった。 「あの、訊きたいことがあるのですが!」  家屋の木戸が背中に当たったところで、煌は慌てて声を上げた。 「なんだい?」 「なんでも訊いておくれよ」  女性たちの動きが止まり、ほっとしながら煌は続けた。 「……ここはどこなんですか?」  しばしの静寂が通り過ぎて行った。 「あらやだ、何かの冗談?」 「もしかしてお芝居のお稽古かしら。役作りとか」 「まぁいいわ。教えてあげる。ここは猿若町二丁目、市村座よ」 「市村座!」  思わず叫んでしまう。しかも今猿若町と確かに聞いた。煌が知っている場所とはだいぶ違うのだが、まさか。  煌は半信半疑、おそるおそる尋ねてみる。 「今の元号は、何と呼ばれているのでしょうか」 「あらあら」 「仕方ないわね、付き合ってあげるわよ。男前だし。――今は嘉永六年だよ」 「嘉永!」  またしても呆けた声を出してしまった。嘉永は江戸時代後期の元号である。 「徹底してるのね、役作り」 「でも今上演しているお芝居は助六でしょう? そんな場面なんてないわよ」 「どんな役でもできるように訓練しているのではないかしら」 「若いっていいわねぇ」  次から次へと勝手気ままに話を進めていく女性たち。しかしその会話は、煌の耳には届かなかった。 「いや、そうか。これはそういう設定なのか。イベントの企画なんですよね! 江戸の人になりきるっていう!」 「はぁ?」  今度は女性たちがきょとんとした顔をしている。 「そうか、やっぱり俺はイベント会場に紛れ込んでしまったんだな」  無理やり自分を納得させてうなずいているのは煌だけである。 「何だい、そのいべんとってやらは」 「それよりもさ、あんた暇なんだろ? これからあたしたちと食事でも行かないかい?」 「え?」  煌が答えるよりも早く、もう一人の女性が前へ出た。 「抜け駆けはなしだよ! 私が先に声を掛けたんだから!」 「早く言ったほうが勝ちさ」  明日の舞台から逃げ出そうと思っていたのだから、暇ではあるのだが、だからといって血気盛んな女性たちについていく気にはなれない。 「あたしだよ!」 「いや、私さ!」  中心的な二人の女性は、お互いに譲らず、つかみ合おうとする勢いである。目の前で繰り広げられようとしているバトルに、何事かと人がまた集まってくる。 「あの、俺は!」  丁重にお断りしようとしたが、二人に同時に睨まれ煌は息を飲む。 「あんたもどっちにするんだい!」  二人はさらに煌に詰め寄ってきた。その鬼気迫る様子に圧倒され、煌はさらに木戸に背中を押し付ける。 「すみませんお断りします!」  煌は言うが早いか、後ろ手で木戸を引くとさっと中へ身を滑り込ませた。そしてすぐに木戸を閉める。 「なんだい、意気地がないねぇ。つまらない」 「あんたの顔が怖かったせいじゃないの?」  女性たちは無理に入ってこようとはしなかった。  去っていく気配がする。 「はぁ、何なんだよ一体」  煌は何回目か分からない「何」をつぶやくと、胸を撫で下ろした。  煌は改めて中を見渡してみた。  行灯がそこここで落ち着いた光を放っている。 「市村座と言っていたけど」  それ以外はがらんとしている。  煌もさほど詳しいわけではないが、市村座とは江戸時代に歌舞伎が行われていた場所だ。 「非日常の世界……」  自然と言葉がもれる。  光と闇のコントラストがさらに独特な雰囲気を醸し出している。  前方には舞台があり、升のように区切られた客席が静かに広がる。今は誰もいないようだ。  劇場は現実の喧騒から隔絶された場所だと煌は思う。ほんのひととき、観客は別世界のストーリー、そして登場人物たちに感情を託し、泣いたり、笑ったりして特別な時を過ごす。  しかし煌は、観客の期待に応えることができなかった。舞台上で一人だけ、現実から抜け出すことができなかった。危うく観客から極上の時間を奪ってしまうところだった。  煌は唇を噛みながら、舞台から顔をそらした。  舞台裏のほうから、時折人の話し声や笑い声が響いてきている。  煌はショルダーバッグからスマホを取り出した。  何度ボタンを押しても電源は入らない。充電切れだろうか。舞台を降板させてほしいとマネージャーに伝えなければならないというのに。  自分なんかの代役ならいくらでもいるし、誰にでも務まる。  悠真はそう言っていた。――自分でもそう思う。  二か月間必死に稽古を重ねてきて、それが簡単に交代できる役だと、今まで少しも思わなかったし疑いもしなかった。誇りを懸けて、夢への一歩だと信じて、全力で演じようとしたはずだ。  ストーリー上、道を踏み外そうとしている主人公を引き戻すという見せ場があるものの、出ずっぱりというわけではない。西條佑は欠かせない存在だが、煌が降板したからといって、代わりがいないわけではない。  結局自分はその程度だったということだ――。  ぎゅっとスマホを握りしめた。 「……帰ろう」  外も落ち着いたようだった。そのとき。  しゃらんと、聞き覚えのある音がした。鈴の音だ。  煌は木戸から手を離し、はじかれたように振り返った。 「おや、見かけない子だねぇ。新入りかい?」  中性的な声だった。  いつの間にか女性が立っていた。女優かもしれない。そう思わせるだけの器量が相手にはあった。  美しく結い上げた黒髪にはべっ甲だろうか、半透明の黄色い櫛がさしてある。薄明りにも毅然として映える薄桃色の打掛は美人な彼女によく似合っていた。 「いえ、いつのまにかこの場所に紛れ込んでしまいまして。すみません、すぐに帰ります」  いちおう軽くおじぎをして、その場を去ろうとした。 「お待ちよ」  その腕をつかまれ、煌は顔をしかめた。存外に力が強かったからだ。 「何でしょうか」  いくらか警戒しながら、煌は言う。 「怪しいねぇ。もしかして盗人じゃあないだろうね。それともどこぞの一座の間者というのもありうる」 「はい?」 「人が集まるところには不届き者も多いからねぇ」 「違います!」  腕を振りほどこうとするが、抵抗しようとすればするほどなぜか女性は嬉々とした目を向けてくる。 「そのおかしな格好といい、何か企んでいるとしか思えないよ。座頭に意見を仰ぐまでは逃がすわけにはいかないねぇ」 「座頭? 誰ですかそれ」 「驚いた。うちの座頭を知らないなんて。ますます怪しい」  切れ長で美しい目がますます細められた。さっきから胡乱というよりも楽しんでいるように感じるのは気のせいだろうか。  優雅でのんびりとした口調とは裏腹に、女性とは思えない力で無理やりに煌を連れて行こうとする。 「ま、待ってください! 俺は何もしてませんし何も企んでいません!」 「不届き者はだいたいそういうことを言うんだよ。ほら、しっかり歩きよ」  女性の細腕だというのに払うことも出来ず、煌は引きずられるようにして舞台裏へと連行されていく。 「……ほんっとに今日はツイてない」  こういう日は何をしても駄目なのだ。煌はもはや諦めるしかなかった。  かすかな香の匂いとともに、しゃらんと再び鈴が鳴る。目の端に、彼女の帯から下がる鈴が映った。  自分をここに連れてきた、黒猫の鈴音に似ているような気がした――。
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