導入部

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導入部

 ある深い夜の出来事だった。    1チェーンほどを隔てた男の背中が、ルーベン・ダウソンの暗殺対象だった。    遠方からの蒸気機関特有の重苦しい音が、籠もった声のようにルーベンの耳にも届く。近頃このロンドンでも試験的に運用されている路面電車だろう。  すると、目の前の男は何の前触れもなく、ぱたり、と。  あまりにも呆気なく、崩れ落ちたのだった。まるで、彼方からの騒音に紛れようと、ふと心に決めたかのような。そんな唐突さと、鮮やかさだった。そして、それきり動くこともなかった。   ルーベンは、その場からは暫く動かなかった。  僅かな静寂の後、彼の視線の先――殆ど漆黒に近い闇から、浮浪人のようなぼろ切れを纏った影が姿を現すのが見えた。  ルーベンは大したリアクションもなくシルエットに話しかける。 「おれのサポーターというのは君か。手間を掛けさせて悪いな……」 「いえいえ。あなたは今後煌びやかなお屋敷でお過ごしになるのでしょう? 火薬の匂いなんて身に纏うべきじゃありませんよ」    ましてや、血の匂いなんて尚更そんな場にはそぐわない。  男とも女とも、大人とも子供ともとれない、そんなトーンの声だった。その人影は自身が先ほど始末した標的の側に腰を下ろし、見聞するかのように見つめた。 「おや、胸部に弾丸が残っていますねぇ」無数の布で覆われた黒ずくめの頭はルーベンの方を向くが、素顔は見えない。「この暗闇で弾丸を探し回る羽目にならないのは結構ですが、この、サプレッサー? でしたっけ。衝撃を殺しすぎでは」 「新しい玩具は不具合が付きものだからな。それで、だ」ルーベンは、ゆっくりと立ち上がる影にフランクな視線を向けながら、「どうも、今回の首尾は最上ってわけにはいかなかったようだな……」 「えぇ。ご想像の通り」  そうか、と対して気落ちせずにルーベンは答えた。  英国における大手銃器メーカーの一つであるジャンクソン・ミニッツ・アームズ。それ以前から付きまとっていた黒い風聞が、事の発端と言えばそうなるだろう。ただ、今回ばかりは単なる巷の噂話で澄まされるものではなかった、という話で。  曰く、その関係者一部による反国家勢力への商品の横流しがされている、とか。    その真偽を半年ほど前から探っていた秘密情報部は、いよいよ真であるという判断を下した。その売り手と買い手それぞれに事前調査で当たりをつけ、それらの処分を決定したのだ。逮捕ではなく、暗殺という手段で。  それが、ルーベン・ダウソン大尉が暗殺者紛いの真似事をするに至った経緯だった。 「結局、受け取り側の人間は現れませんでしたよ」と、黒い影もやはり無念さなど欠片も持ち合わせていない声で報告した。「与えられていた情報も不足していましたし。まぁ、今回の件が公になれば、彼らへの牽制くらいにはなるでしょうけど」 「誇り高き上層部の皆さまが、おれ達に情報だの賃金だのを出し惜しむのは今に始まったことじゃないさ。こんなスキャンダルにもおれ達二人をこき使う方針で対応する連中だしな?」    今回は特に、胡散臭い話だよ。そう付け加えるのは止めて置いた。  しかし、言葉にしなかった部分も察したのか、黒い影は肩をすくめて見せた。少なくとも、ルーベンにはシルエットの僅かな変化がそのように見えた。 「予定通り、この死体はわたくしが処理しておきます。パターンは、Fで」 「キャンプファイヤーか」彼は眉をひそめかけ、「好き嫌いの問題ではないと自覚はしているがね。君はそういうのが好きな手合いか……」 「それはまぁ、言わぬが花ですかねぇ」  くふふ、と影は笑った。こいつの自分よりは体格が遙かに小さいな、と長身のルーベンは相手を観察しながらそう判断を下した。 「予定通り、こっちはせいぜい社交界に洒落込むとするさ。正直、収穫については敗色濃厚そうだが。君以外にも追加の人員は……居るわけないな。結構。情報部の財布事情は身にしみているさ」 「あなたの出張先の屋敷ですがね。本部との情報の仲介はわたくしが行います。わたくしのコードネームはJ,S。もしこちらが姿を変えて伺うときは、これをイニシャルに用いた偽名になるかと」 「J.S、だな、分かった。雨雲は珍しくなさそうだが、今夜は冷えそうだ。気をつけて」 「そちらも……」と、何かを言いかけ、「まぁ……お楽しみください」 「皮肉かな。屋根の下でこれからを過ごすおれへの」 「さて、どちらでしょうねぇ」  くふふ。  J.Sと名乗った影は小さな声と共に、再び屈むように膝を曲げた。そして、物言わぬ死体へと手を伸ばかけたところで、ルーベンは背を向けた。  彼の背後からは、地面を擦るような、決して心地よくはない音が聞こえてくる。だが、振り返りはしない。顔色を変えることなんてなく、せいぜい肩をすくめるだけだ。  
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