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幼い頃はこの名前のおかけで、大変多くの人に馬鹿にしてもらえた。
「女男」とか、わざとらしく「ちゃん」を付けられたりとか、とても注目を集めてもらい、有名にしてもらえ、忘れられない思い出を作ってもらえた。
だが、中学生にもなると今度は気を使われるようになり、高校生になれば見て見ぬふりをされ、大学生になった時には触れることすらされず、大人になった今、痛々しい目で見られている。
幼い頃の方がまだ楽だった。それが最近の本音だ。病院の受付などで名前を呼ばれ、返事をしてその主の元へ向かうと、微かではあるが、明らかに怪しいものを見る目つきで私を見るのだ。
一体私が何をしたというのか。腹立たしさよりも悲しみが勝ってくるのだ。
この名前以外のことに対し、私は神を恨むようなことはなかった。即ち、私が受けた宣告が神を恨んだことに対する罰であるとするならば、原因はこの件に関してということになるのだろう。
だとしたら、この罰は少し重すぎるのではないだろうか。
神を恨んだことは確かであり、罰を受けるのも仕方ないことだと思う。だが、この宣告は予想の範囲を遥かに超えており、神の恐ろしさを痛感させられ、謝って赦しを乞いてもどうにもならないのだということを今実感している。
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