もう一度、桜が見たい

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もう一度、桜が見たい

「日本は桜が咲きましたか」  旅行先のサンクトペテルブルクで、俺は見知らぬおじいさんに声をかけられた。 (……日系のロシア人とかなのかな)  少し日本語の発音がおかしいのと、外国人っぽい顔をしているので、なんとなくそう思ったけれど、真相はわからない。  おじいさんは一人旅の俺に近づいてきた。 「どうですか。もう五月だし、桜は咲きましたかね?」 「あーいえ、五月になると、もう桜は散っちゃってますね。最近、あったかいから桜が咲くの早いですし」 「そうですか。私が住んでいた北海道は桜の時期が遅かったのですが、あなたはどちらからいらしたのですか」  どうやら日本出身者らしいと思いながら、俺は答える。 「関東からです。神奈川に住んでます」 「関東ですか。そうか、北海道の人でしたら、今の北海道の話をお聞きしてみたかったのですが……」 「すみません。あの、北海道のどのあたりにお住まいだったのですか?」  もしかしたら旅行で行ったことのある場所かもしれないと思い、俺が問いかけると、こちらの意図を察したのか、おじいさんの表情が明るくなった。 「遠別です。稚内と留萌の間あたりにあるのですが」 「遠別市か遠別町ですかね……。ごめんなさい、知りません」  俺が首を振ると、おじいさんはとても残念そうな表情を浮かべた。  なんだか申し訳なくなって、俺は話題を切り替えた。 「おじいさんはその北海道の遠別から来たんですか? 旅行……ではないですよね。ロシアに住んでるんですか?」 「ええ。サンクトペテルブルクの近くの村に住んでます」  旅行にしては軽装なので、住人という読みは当たったらしい。 「北海道にはご親戚が?」 「いえ、どうですかね……もう遠別を出たのは75年前なので」 「75年!?」  あまりに長い年月だったので、俺は声が裏返った。 「あはは、驚かれますよね。あなたはお若そうですから、もう歴史の授業のような年代でしょう。でも、本当に75年前に日本を出て、それからいろいろあって、私はロシアにいるのです。ただ……死ぬ前に一度、桜を見たいなと思いまして」 「桜ですか?」 「はい。あなたは白樺をご存じですか?」  なぜいきなり白樺の話になるのかと俺が訝しんでいると、顔に出たのか、おじいさんが説明してくれた。 「白樺はロシア人にとって、ただの木ではないんです。故郷の懐かしさ、国を思う気持ち、自分の原点……それらのすべてを持った象徴。私にとってはロシア人の白樺が桜なのです」  おじいさんの話は半分くらいしかわからなかったけれど、それだけ桜を懐かしく思っているのだというのは伝わった。 「ロシアには桜はないのですか?」 「いえ、あります。15年ほど前にサンクトペテルブルクのピョートル宮殿植物園に150本の桜が日本から送られ、その前の桜と合わせて、時期が来ると咲き誇ります」  なんだあるのかと肩透かしを食らった気分だったが、おじいさんは寂しそうな笑顔を浮かべた。 「でも、そうではないんです。私は日本の桜が見たいんです。桜の苗木はロシアに来ることが出来て、ロシアからの返礼も日本に行くことができるのに、私は日本には行けないのです」 「……どうして?」 「いろいろです。お金が無かったり、親族が見つからなかったり……いろいろと。ああ、でもどこかでボタンを掛け違ったんですかね」  ふと、ずっと立ち話をしていると気づき、俺は広場のベンチを探して、空いてるところをおじいさんに勧めた。 「すみません、あなたもどうぞ」  席を詰めて空けてくれたのに断るのも悪いので、俺は隣に座った。 「私は関東軍にいたのです。義理の母と折り合いが悪くて、軍に入り、戦争を戦ったのですが……。満州で戦争の終わりを迎え、ソ連軍に捕まりました」 「ソ連……?」  俺がつい零すと、おじいさんはポンと自分の額を打った。 「ああ、そうか。今の若い方はソ連という言葉に馴染みがないのですね。ロシアの前はソビエトという国だったのです」 「そういえば習いました。あと、1945年8月に戦争が終わったのも」 「日本の教育では、1945年8月に戦争が終わったことになっているのですね。でも、満州など北にいた私たちはそこからが始まりでした」  おじいさんは淡々とそれからの日々を話した。 「10年間はラーゲリにいました。寒い中、木の伐採をして……それから私はピョートルという名前になり、船員をしたり、電気工をしたり、ソフホーズで働いたり……。気づくともう年金をもらう年になっていました」  よくわからない単語が並ぶけれど、後でスマホで検索することにして、俺は話を止めずにおじいさんの話を聞いた。 「それで年金をもらう年になったら、日本に戻りたくなったのですか?」 「そうですね。父のことも兄弟のことも気になったし……でも、手紙を送っても返事はありませんでした。父は亡くなっているのかもしれない。兄弟は……ロシアで生きている私を恥じたのかもしれません」 「ええ!? おじいさん、戦争で生き残ったんでしょう。それじゃ、生きてて良かったって思うのが普通じゃないですか?」  驚く俺におじいさんは笑顔を浮かべた。 「ありがとう。君の言葉を聞いて、今の日本はとても良い国になっているのだと知ることが出来ました」  何を言われたかわからず、俺は目を瞬かせる。  でも、おじいさんはとてもうれしそうだった。 「人が生きるのが罪ではない、戦争で生き残るのが恥ではない。その気持ちをずっと持ち続けてください。話してくれて、ありがとう」  ゆっくりとおじいさんが立ち上がる。 「あの……」  引き留めても何も言えることはないのだけど、俺はおじいさんに何かしてあげたかった。 「俺にあの、何か出来ますか?」 「……『シベリア抑留』」 「えっ……」 「日本人が戦争の後、シベリアに連れて行かれて、5万人以上が亡くなりました。どうか、そのことを……あなたの世代も知ってくだされば、うれしいです」  聞いたことが無い言葉に戸惑う俺に、おじいさんは柔らかく笑った。 「久しぶりに日本語を聞いて、日本語を話せて、楽しかった。ありがとう」  おじいさんが笑顔を残したまま、去っていく。  俺はロシアに来てみたくて、バイトでお金を貯めて、旅行に来て。  おじいさんは来たくないのにロシアに連れてこられて、でも、数日で帰国できる俺と違って、日本に戻ることが出来なくて。 (ああ……)  どうかおじいさんの気持ちだけでも一緒に日本に戻れますようにと願って、俺は去っていくおじいさんに手を振った。
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