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僕のクラスの山崎さんは、ヒロインだ。
まるで少女マンガの主人公になるために生まれてきたかのような、どこからどう見ても完璧なヒロインだ。
大きくてきらきらした目、高すぎずすっと整った鼻筋、控えめで愛らしい唇、ころころと鈴を転がしたような声、ふわふわと肩で踊る髪。
社交的で、みんなに優しくて、少し天然で、なんだか放っておけなくて、かわいらしくて。
そのふわっとした笑顔で見つめられれば、どんな男子だってイチコロだ。
まさに、マンガやアニメでしか見たことがないような、ヒロインという言葉にぴったりな、完璧な美少女だった。
そして僕はといえば、どこにでもいる冴えない男子高校生。
彼女の席の斜め後ろに座っているだけの、マンガやアニメでいえばただのモブ的な存在だ。
「ねぇ宮内くん、次の授業ってなんだっけ?」
「あ、えっと、数学だよ」
「ありがとう!」
それなのに、彼女は、僕のようなモブにさえこんな風に笑顔を向けてくる。
甘い匂いを振りまいて、軽やかに歩きながら遠くなっていく背中を、僕は拝みたいような気持ちで見送った。
誰からも好かれ、大勢の取り巻きを引き連れて、彼女ほどではないが同じようにキラキラした女子に囲まれながら学校生活を送る彼女は、やはりクラスの中心人物だ。
男子たちは彼女に熱っぽい視線を送り、女子たちはなんとか彼女に取り入ろうと必死に媚を売っている。
天然っぽい彼女は、それらをふんわりと受け流して、てっぺんで楽しそうに笑っている。
何も知らないような笑顔で、無邪気に笑っている。
その笑顔に、またみんなが夢中になる。
彼女は、そんな存在だった。
僕は、それをただ見ている。
誰も味方のいない教室で、最下層から、それをただ黙って見ている。
そんな、平和な毎日だった。
彼女の存在と、周りの上っ面の笑顔だけで成り立った、平和な日常だった。
ただ僕は、一つだけ彼女に疑問を抱いている。
彼女は長袖しか着ないのだ。
いくら夏になって、熱中症患者が続出したって、彼女は決して半袖を着ない。
噂では、彼女の腕を見たものは、クラスに一人もいないらしい。
以前、彼女の女友達の一人が、それについて彼女に訪ねているのが聞こえたことがある。
「ね、あかりさー、いっつも長袖着てんじゃん。暑くなーい?」
「えー? だって長袖じゃないと萌え袖できないじゃん? えへっ」
「さっすがー!」
そのときは、したたかだなぁとただ感心し、それで納得していたが、それは今でもかすかな違和感を残し続けている。
学校を出ると、僕はすぐさまスマホを取り出して電源をつける。
もうずっと繰り返している動作だ。
起動してすぐに、青い鳥のアイコンをタップする。アカウントを持ってすぐのころに絡むようになった人から返信が来ていた。
適当に返信しつつ、彼女のつぶやきをチェックする。
彼女も同じくらいの時間に学校が終わったようだった。今までにも何度か学校が終わる時間が重なっているようだ。学校の終わる時間なんて大体同じようなもんなのだろうか。
絡み始めてすぐのころは、明るい人だと思っていたけれど、最近は少し病んでいるようだ。時々あげられる腕の写真には、痛々しい傷がたくさんついたそれが映っていた。
ネットでできた友達とはいえ、薄くてもつながりを持った相手が傷つくのはやはり少しつらい。よく励ましや慰めの言葉をかけてはいるが、果たしてほんの少しでも助けになっているのだろうか。
彼女の手首の傷は最近、どんどん増えている。ストレスの原因は積み重なるばかりのようだ。今ではもう、ほぼ腕全体にまで傷がついてしまっている。
傷がまた増えていたりしないだろうか。僕は少し心配しながら、彼女の写真付きのつぶやきの欄をスクロールする。
「……あれ?」
見逃していたのだろうか。初めて見る彼女の自撮りがあげられていた。
そして、その写真の彼女の顔は。
あの、クラスのヒロイン、山崎さんにそっくりだった。
「……え……?」
どういうことだ?
僕がずっと絡んでいたあのアカウントの中の人は、山崎さんだった?
いや、嘘だ。そんなはずはない。
今までの会話を思い出せ。あのアカウントの彼女と山崎さんの雰囲気は、似ても似つかないじゃないか。
あのアカウントの彼女はいつもアニメやゲームの話をしている。対して山崎さんは、アニメやゲームの話など学校ではほぼしない。
そもそも山崎さんはあんなに明るいんだ。毎日、楽しそうに学校生活を送っているじゃないか。友達だってたくさんいる。みんなに好かれているんだ。
僕と違って。
山崎さんはいつだって友だちに囲まれている。休み時間に一人でいることをごまかして本を読むこともない。
クラスの話し合いの時に、どんな意見を出し立って反対されることはない。じっと息をひそめている必要もない。
そんな山崎さんが、あんなに暗いことを言うはずがない。腕を覆い隠すほどたくさんの傷をつけるほどつらい悩みなんてあるはずがない。
きっと、そうだ。人気者なんだから。誰もが認める人間なんだから。
「………………」
写真の彼女は、見れば見るほど山崎さんに似ている。
僕はその笑顔を、どういう気持ちで見つめていいのか分からなかった。
――もし、本当に彼女が山崎さんなら。
それを知ってしまったら、どうなるかは自分でもわからない。
ただ、きっと確実に今のままではいられない。
どうすればいいんだろう。
僕は、ただ呆然と彼女の写真を見つめていた。
写真の中の彼女は、何も知らずに微笑んでいた。
寝る時間になっても、僕はどうしたらいいのか分からないでいた。
スマホを握って、ベッドの上で一回転してみる。
クラスのグループラインでつながっているから、山崎さんとはいつでも連絡はとれる。
でも、今彼女に直接連絡を取るのは危険すぎる気がする。
悩んでいると突然スマホが震え、青い鳥のアイコンの通知が表示される。あのアカウントの彼女から、DMの返事が届いていた。
それは当たり障りのない内容だったけれど、それを見て僕は、ほぼ反射的に彼女に質問をしていた。
『ねえ、そう言えばどの辺に住んでるの? 言いたくないなら言わなくていいし、めっちゃ大体でもいいから』
『えっとねー、めっちゃ田舎だよ。福井って言って分かるかな?』
『あ、え、福井住んでんの!? 僕もだよ!』
『え!? うそ! 福井住んでるフォロワーさんなんて絶滅危惧種だと思ってたよー』
『僕もびっくり!』
そんなやりとりを映した画面を、僕は恨めしいような気持で見つめた。
こんな小さな県だ。同じ場所に住んでいるとなると、かなり条件は限られてくるだろう。
しかも、彼女は高校生だ。それはプロフィールに書いてあるから分かる。
福井に住んでいる、高校生。女子。学校の終わる時間が同じ。自撮りの写真がそっくり。
導き出されるのは、ため息をつきたくなるような結論だけだった。
『いきなりごめん。山崎さんってツイッタ―やってる?』
『やってるよー。でも恥ずかしいからつながるのはちょっと…… ごめんね!』
『いや、全然いいんだけど、やってるんだ。 そのことについてちょっと、聞きたいことがあるんだけど。明日、放課後あいてる?』
正直、自分でもどうかしてるとしか思えない。
彼女の秘密を知ったところで、いったい何になるんだ。
彼女に腕の傷について尋ねたところで、いったい何になるというんだ。
知ったら、今のまま平和に暮らすことはきっとできないのに。
知りたいと、願ってしまった。
教室のドアが、そっと開く。今日は活動していない僕の部活の教室。
そこで僕らは、二人だけで向き合った。
別に何か特別なこと、たとえば告白なんかをするわけでもないのに、なぜか緊張してきてしまう。
こんな、クラスのヒロインと二人きりで向き合うことだけでも、十分事件なのに。
彼女は意外にもしっかりとした目で僕を見据えている。僕が何の話をしようとしているのか分かっているようだ。
「……それで? 聞きたいことって、なに?」
それなのに、彼女の声は震えていた。
「あのさ……これ、山崎さんじゃない?」
僕はなんだか申し訳ない気持ちで、彼女に向けてスマホを差し出す。
画面を覗き込んだ山崎さんの表情が、観念したように歪んだ。
「………………」
沈黙はほんの数秒だったはずなのに、何時間もたったように感じられる。
やがて彼女はスカートをぎゅっと握りしめてから、顔を上げた。
「……あは。ばれちゃった」
軽い口調とは裏腹に、その顔にはたくさんの汗が浮かんでいた。
一生懸命笑おうとしている口もとは歪んでいて、なんだか痛々しい。
彼女は俯いて、もうどうでもいいとでも言うかのように、自ら袖をまくりあげた。
あらわになった細い腕には、びっしりとたくさんの傷が刻まれている。
見ているだけでこっちまで痛くなってきそうで、僕は思わず目をそらしてしまう。
そんな僕を見て、彼女は自嘲気味に笑い、その傷を隠すように両腕で体を抱えた。
「それで、どうするの? 脅しでもかける気? バラされたくなかったら、僕と付き合えって?」
「……いや」
驚いた。そんなこと、少しも思っていない。
首を振って否定すると、彼女は信じられないという顔で僕を見つめてきた。
少し涙でうるんだその瞳は、やっぱり綺麗だ。
「僕はただ、気になって。クラスで、いや学年で一番の人気者が、どうしてそんなことをしているのか」
「………………」
彼女は驚いた顔のまま数度目を瞬いて、また俯いてしまった。
「……学年で一番の人気者、か。確かに、そうなのかもしれない。いつだって、みんな声をかけると嬉しそうにしてくれるし、たくさんの人が私と友達になろうとしてくれる。でもね、私、気づいちゃったんだ。そんなのただの幻想だって」
「幻想……?」
彼女の声は、いつもの声からは想像もつかないくらい、低く沈んでいた。
「だって……誰も、私のことなんて見てくれなかった。声をかけられて嬉しそうにする人は、みんな私の顔だけを見てた。友達になろうとしてくれる人は、みんな私の人気だけを見てた。気づいちゃったんだよ。本当の私なんて、誰もいらないんだって」
「………………」
そんなことない、って否定できたらどんなによかっただろう。
今向き合っている彼女は、山崎さんと同一人物なのかと疑ってしまうくらい、いつもの彼女とは違っていた。
きっと、それも彼女なんだろう。そんな弱さも、彼女の一部なのだろう。
それなのに、彼女はそれをひた隠しにしていた。
「みんながみんな、私のことを少女漫画のヒロインみたいだと思ってる。みんな、ヒロインの私しかいらないんだよ。君だって、そうだったんじゃないの? 私のこと、ヒロインみたいだって思ったでしょ。物語の中の人みたいだって。ねぇ、違うよ。私はヒロインじゃない。登場人物なんかじゃない。一人の、人間なのに……」
彼女の瞳から、ぽとり、と涙が零れ落ちた。
僕はただ、そんな彼女を見て黙っていることしかできない。
正直、いまだにちゃんと信じられないでいた。
彼女が、目の前で泣いている。
あの山崎さんが。傷だらけの両腕を抱えながら、涙を流している。
彼女にはそんな悩みなんて、ないと思っていた。
彼女は、僕とは違う世界の住人だから。
いつだって人気者で、みんなに囲まれていて、輪の中で楽しそうに笑っている彼女。
そんな幸せそうな顔を見て、僕は勝手に勘違いをしていた。
彼女が本当に幸せだと、思い込んでしまった。
輪の中心にいることが許されている彼女には、輪に入れてすらもらえない僕の苦しみなんてわからない。そう思っていた。
僕にだって、彼女の苦しみなんてわからないのに。
彼女は今だって、僕の前で静かに涙を流し続けている。
きっと、これが彼女なんだ。これが、幸せなふりをして笑っていた彼女の、本当の姿なんだ。
「……ごめん。泣かないで」
ようやく、僕は口を開くことができた。
彼女が、顔から手を離して僕を見る。じっと見つめられると、やっぱり少し心が浮き立つ。
顔が涙でぬれて、傷だらけの腕があらわになっても、彼女は彼女だった。
「多分、山崎さんの言う通りだと思う。正直、僕もそう思ってた。でも、それで山崎さんは傷ついてたんだよね。わからなくてごめん。もう、わかったから。だから、泣かないで」
「宮内くん……」
彼女はしばらくかけて涙をぬぐったあと、僕に向けて微笑んだ。
「……それで、どうするの? それ」
そう言って、僕のスマホを指差す。
いたずらっぽく笑う彼女は、いつもの彼女でも、さっきまで泣いていた彼女でもなかった別の顔だった。
それすらも、彼女の一部だ。
「どうもしないよ。僕からは、何も。疑うんだったら僕のアカウントを消したっていい」
知らない一面に不覚にもどきっとしつつ、僕はなんとかそう答える。
彼女は、それさえもお見通しだとでも言うように、くすくすと笑ってみせる。
きっとまだ、僕の知らない一面なんてたくさんあるのだろう。
同時に、彼女の知らない僕の一面だって、きっとある。
でもそれも、彼女であり、僕だ。
それも含めて、僕らは、僕らなんだ。
明日から、僕の日常がどうなっていくのかは分からない。もしかしたら何も変わらないかもしれないし、何かが大きく変わってしまうかもしれない。
それでも。
今日、ここで、彼女の涙を見て。
彼女の弱音を、本音を、聞けて。
よかったと、心から思う。
彼女は、すっと視線を落とすと、微笑んだままそっと傷だらけの腕を撫でる。
「もう、きっと大丈夫だよ。君のおかげでね」
そう言って彼女は、赤くなった瞳で僕を見つめて、また笑う。
教室には、あかい夕陽がさして、机の影が長くのびている。
明日からの日々が、少しだけ楽しみになった気がした。
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