序章 クロノス・カタストロフィ

12/51
前へ
/51ページ
次へ
「さて、これだけ強力な時間停止が作動しているならば、もしかすると、巻き戻すこともできるかもしれんな」 ホークは司の胸元を見た。 「回してみなさい。三回、反時計回りだ」 「え、でも、僕」 ホークは焦れたように、まごつく司の胸元に手を伸ばした。ペンダントを手に取り、三回、指先で弾くと、信じられないことが起こった。 黒い竜が後ずさる。 司はあわてて横に転がった。 黒い竜は司に向かってひざまずいていたのと同じ姿勢を取った。かと思えば、口をパクパクさせ、突然、舞い降りたシルシオンを殴り、次に殴られた。 しばらく、まるで時間が巻き戻ったような光景が広がった。司はまだ、何がなんだか分からなかった。 と、黒い竜が、衝撃波を撒き散らした。 あたりを見ると、逆に街が戻っていく。  だが、黒い竜の濁った瞳はそのままだった。 司は言い知れない不安を感じて、ホークを見た。 「その通り、説得は無理だ」 時間が動き出す。 ホークは、魔道書を右手に持ち、左手を前に突き出した。 左手から、緑色の光の渦が現れた。すると、竜の身体が一本のひものようになり、ぐるぐると光に煽られながら、本に吸い込まれていく。竜は必死でもがいているようだったが、やがて、本へと収まった。 司はホークをまじまじと見た。 「私は待っていろと言ったはずだが?」 「でも、あのままじゃ。街が壊されてたよ?」 「まあ、そうなんじゃが。先ほどあの竜が壊したものは、本来壊れるはずのものだったんだよ。それなれば、壊してもらってから、封印しようと思ったわけだ。うん、そういうわけだ」 「本来、壊れるはずって? どういうこと? だって、壊していいものなんてないじゃないか」 「君もいずれ分かる時がくるとも。それとな、司、もう一つ理由があったんだ。あの竜、様子がちょっと変にならんかったかね?」 司は考え込んだ。思わず眉が寄ってしまうのを感じる。 「瞳が赤から紫に変わったんだ。そしたら、もっと凶暴に」 「やはりか……」 「どういうことなの?」 「帰ろう。疲れただろう? 汗だくだ。お風呂に入りなさい」 「大丈夫だよ。僕、銭湯を使うから」 「いいから、来なさい」 ホークは司の手を乱暴に引いた。 「ねえ、ホーク? 壊れてもいいんだったら。どうして巻き戻したの? 僕、訳が分からないんだ!」 「君の選択を尊重しようと思ったんだ。どちらにせよ、最終的にはあれらの余分は排除される。いいか、あの竜が壊そうとしたのは、不必要なものだ。そう、王が決めた」 「王って、クロノスのこと?」 司が声を震わせながら尋ねると、ホークはぎょっとしたのかしばらく口も利けないようだった。 「知らん、そんな王様はな。確か、ギリシャ神話にそんな神様がいたが、それ以上のことは知らん。うん、知らんと言ったら知らん」  司はすっかり不機嫌になったホークを見て、胃が縮むような気分だった。 会話の糸口を見つけようと、とにかく口を開いた。   「あのね、ホーク。ホークが時間を止めてくれたんでしょ? ありがとう!」 「! う、うん、そういうことだ。中々骨が折れたぞ」 「時間が巻き戻ったのは、ホークがこのペンダントに魔力を与えたからでしょう?」 「そ、そうだ。その通りだ」 ホークの返事は歯切れが悪かった。渋い顔をしたままだった。 「勝手に本を触ってごめんなさい」 急いで謝ると、ホークはやっと表情を和らげた。 「もう怒っておらんよ。好奇心に戸は立てられまい。私の若い時なんか、もっと酷かった」 「何をやったの?」 「君ほどの大事にはならなかったが、似たようなことは沢山やったな。読んではいかんという本は読み漁ったし。つまみぐいもしたし、女の子にいたずらをしたり」 「女の子にいたずらをして、何が楽しいの?」 司は本が読みたい気持ちとつまみ食いしたい気持ちは分かったが、女の子にいたずらをしたい気持ちは分からなかった。 そもそも、これまで女の子としゃべったことがないから、そんな気持ちになるのかもしれないと思った。 司は、まじまじとホークを見た。 「君にも、そのうち分かるとも。女の子との刺激的な会話は人生に彩りを与えるし……」 司は思わず吹き出した。 「あ、ごめんなさい」 あまりにも失礼な態度を取ったと思って、司はあわてて謝った。  ホークは少しだけバツの悪そうな顔をしていた。 司は、続けて頭を下げた。 「いい、いい、気にしておらんとも。しかしな、司。いつまでもそんな態度では損をするぞ。いつか、本気で好きになった女の子に出会った時にな」 「ホーク、だって僕、ちょっと離れてしまったら忘れられちゃうんだよ? 好きになったって、向こうが忘れちゃうんじゃどうしようもないじゃないか」  ホークは、気の毒そうに司を見下ろした。 「司、君はそれで、女の子への興味を閉ざしてしまったんじゃな?」 「うん、そうみたい。……ところで、ホーク?」 司はホークを見上げた。 「なんで、僕のことを覚えているの?」 「この世界で戦うために、一時的に全知の範囲を広げたのだよ。じき、範囲がしぼむから、急いで図書館に戻ろう」 ホークは杖を突きながら、図書館への道を引き返した。 「全知の範囲を広げるって、そんなことができるの? それなら、なんだってできるじゃないか?」 「いや、全知ほど役に立たないものはない。いいかい、分かっていても止められない不運や、事故はこの世界に溢れている。無力感にさいなまれるだけだ」 ホークの表情はどこか、憂鬱そうだった。 司は、聞いてもいいかどうか迷った末、「答えなくてもいいんだけど」と、前置きをして、 「だから、ホークはあんなところに閉じこもっていたの?」 「うーん」 ホークは答えたわけではなかったが、司には答えがわかってしまった。 司は少しはしゃいでいる自分に気づいた。 こんなに人と喋ることができたたことはない。 「ホーク、ねえ、ホーク。僕に魔法を教えて?」 「時が来たら、な。うん、時が来たら、だ」 「それっていつ?」 「君がもう少し、人間というものを知ってからだ。今のままでは人として未熟すぎる」 「あの竜みたいに、力を得たらみんなを傷つけちゃうってこと?」 「司、君は勘が鋭いが、それでは答えの半分だ」 ホークはこつ、こつ、と地面を叩いて司の答えの半分を待っていた。 司は考え込んだ。 そのうちに、図書館へ続くレンガの道が見えてきた。スニーカーをずるずる引きずりながら、司は考えた。 靴はボロボロで考えるには邪魔っけだった。 「君は靴も月六千円の中から払っていたのか?」 ホークは司の心を読んだのか、目を丸くして司を見ていた。 「いつも、誕生日に靴を買うんだ。あと服も。少しずつ貯金するの」 「それにしては、ずいぶん身綺麗だね」  「コインランドリーを定期的に使ってるんだ。百円で回せるし、結構便利だよ」  「そして、銭湯にも毎日行っているのか?」 「……うん」 司は自分の肩が縮むのを感じた。 「後ろめたいことは何もないぞ、司。お金が無い時に、大して儲ける気もない銭湯に無料入場するのはそう悪いことじゃないと私は思う」 少しだけ、ここ数年抱え続けていた後ろめたさが和らいだ気がした。 「だが、コーヒー牛乳を一度だけくすねたのはよくないかもしれんな」 「う、うん、ごめんなさい」 「わしが心配しているのは、そういう所だよ、司」 ホークはあごひげを撫でながら、突然話題を変えた。 「やっぱり、盗みを働くような奴には魔法を教えられない?」 司はやっと、半分の答えが聞けるのだと気づいた。 「違う、違う。君には常識というものがないのだ」 「常識って?」 司は少しだけ腹を立てた。  銭湯はともかく、もしも、図書館で眠っていることや、服や靴を買うときの習慣、コインランドリーの使い方のことを言っているなら、少し不当だと思う。 「違うよ、司。責めているわけではない。君は普通の人のように社会生活を生きたことがない。社会を知らねば、本当の正義が分かるはずもない」 司は、社会、という言葉を何度も目にしたことがある。  だから、社会なんてよく知っていると自分では思っていた。 ホークと司は、立ち止まった。ちょうど、茶色の扉の前に足を止めた。 ホークはあごひげを撫で、くすくすと笑った。 「知識と実践を勘違いしているところも、ゆるゆると直していこう」 司はいいかげん頭がぐるぐるしてきた。 「っはっはっは、まずは風呂だ」 二人は扉を開けて、やがて書庫にたどり着いた。
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!

46人が本棚に入れています
本棚に追加