序章 クロノス・カタストロフィ

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こんなに小さな風呂は見たことがない。 司は知らずに口を開けていた。 小さな浴槽に、お湯がなみなみと注がれていた。足の先でお湯を触ると、びりりと皮膚が痛んだ。銭湯と同じくらいの熱さの湯だった。司は裸のまま、風呂に体を沈めた。 お湯から泡が出たので仰天したが、声は出さなかった。 不思議といい匂いがした。身体に害のあるものではないのだろう。 司は、天井を見た。 オレンジ色の電灯が緩やかに光を吐き出している。 と、その時、部屋の向こう側から、言い争うような声が聞こえた。 司は、興味が惹かれて、浴槽から立ち上がった。身体はまだ温まり切っていなかったが、興味の方が先に立ってしまった。 浴槽は強化ガラスの扉で隔てられ、扉の横には青いタイルが敷き詰められている。  ぴたりとタイルに耳をつけると、夕べの魔法使いのような女の人と、ホークが言い争う声だとわかった。 「何があったか、こちらもある程度は認識しているんです! あなたがあの黒い竜を使ったわけではないと分かっていますよ!」 「こちらにも聞きたいことがある。あの騒動が起こっている間に、本が何冊か奪われた! 心当たりはないのかな?」 「まあ、私達を盗人扱いですか? 私だって堪忍袋の緒が切れますよ! とにかく、隠している少年ないし、少女を引き渡してください! その子は、我が学園で、面倒を見ます!」 「何のことか全くわからんな! とにかく、本を返せ!」 「で、す、か、ら! 知らないと言っているでしょう!」 二人はイキりあい、にらみあった。 司は耳をさらに強く押し付けた。ラビニアという女性が、先程、私、ではなく、私たちと言っていたことから、どうやら、もう一人がそこにいるらしい。 「このままでは埒があきません」 静かな男の声だ。 とても低いが、張りのある声で、どうやら割と若いようだ。 「ハリル・京極教授、わしは埒を明かすつもりもない。君たちが盗んだ本を返せと言っているのだ」 ホークが怒った顔をしているのが容易に想像できた。声だけを聞く限り、ものすごい剣幕だ。 「我々は本を知らないと言っているし、そちらは少年も少女も知らないと言う。折り合いなどつけようもないですよ、ラビニア教授監督官」 「ええ、ですから、お互いの誤解を解かないと」 「少なくともですが、このご老人が少年か、または少女をかくまっているのは確かな話です。  その光景を我々は遠隔透視魔法によって観測しています。  その後、観測は困難になりましたがね。ともあれ、もしも、その少年がなんでもない、ただ偶然に居合わせ、竜にしがみついただけの無鉄砲だというなら別ですが?」 「ああ! その通りだ!」 ホークの声は苦々しく響いた。 「ホーク、あなたにしては随分と冴えない嘘ですね」 ラビニアは頭痛がする、とでも言いたげな口調だった。 「とにかく、魔法が使えるのは貴族である証です。  その子には貴族の父母がいるはずです。  あるべき場所にその子を返すべきでは? こんなところにかくまって、才能を錆びつかせてはかわいそうではないですか?」 「もしも、そんな子がいたとすれば、わしが面倒を見る。  一流の魔道師にしてみせるとも! わしはお前達のいうところでは、最高の魔道師メイカーらしいからな!」 司はついに好奇心に耐えられなくなって、ガラス扉をほんの少しだけ開けた。 リビングの上にある階段から、かろうじて三人の姿を覗き込むことができる。 三人は言い争うのに必死で気づかないようだった。 「単刀直入に申し上げれば、あなたが才能溢れる貴族の子をかどわかして、王族に対抗する魔道師を作り出そうとしているのかもしれない、という疑いがあるわけです」 ラビニアは京極を振り返って今にも絞め殺したいというような顔をした。 ホークは高らかに笑った。 「たった二人の魔道師が国家転覆を企てていると? 馬鹿馬鹿しい!」 ホークが泡を飛ばして喋っている時、京極が一瞬だけこちらを見たような気がした。  司はあわてて京極を観察した。黒い着物を羽織っている。袴も黒なら、髪も真っ黒で、どこか死神を思わせた。 「確かに話だけを聞けば馬鹿馬鹿しいですが、これだけの禁じられた魔道書を前にすれば、流石に大口開けて笑ってはいられませんね」 京極は唇をつりあげた。 京極の目には魔道書の数々が写っていた。先程、自分を見た時も、もしかしたら魔道書を探っていたのかもしれないと、司は思うことにした。  「それに、さっきの黒い竜、あれは、伝説に名高い黒竜レウリスでは? まあ、実物をみたことがないから何とも言えませんが、とにかく、レウリスであれば、大変なことです」 ラビニアが振り返った。 なんたること! という顔をしていた。 「ホーク、あなたは、まさか、『完璧な歴史年表』を? もし、あれを保有しているなら、なぜ、王族に献上しなかったのですか?」 「教えてやる! そんなものは持っていなかったからだ!」 すぐに嘘だと分かった。 なぜなら、司は『完璧な歴史年表』をこの目で、この部屋で見たからだ。 司は息を殺しながら、衣服を探した。 もっと近くで聞きたかった。どういうわけかは知らないが、どうしてもこの会話を聞かなくてはならないような気がした。 司は、衣服を探り当て、さっと身につける。少しだけ息を殺しながら、司は階段の方まで静かに歩んだ。階段の横に座り込んで、じっと話を聞く。 「とにかく、ホーク。『完璧な歴史年表』が奪われたなら、かつてない事態が起きるかもしれません」 ホークは声も出ないようだった。 京極がさらに畳み掛ける。 「ホーク殿、貴方は数々の魔道書を把握し、その危険性も理解している。であれば、この事態もすぐに飲み込めるはずですね?」 「世界が、文字通り、めちゃくちゃになってしまう」 ラビニアが引き継いだ。神経質そうに声を尖らせている。 ホークは笑みを漏らした。 「もし、盗まれたところで、『完璧な歴史年表』を読むことも適わないだろう。  伝説の王は、歴史年表に細工をしているし、わしもそれに携わった。  もし、お前達の中に奪ったものがいるならば、わしから読む方法を聞きたくてたまらないであろうな?」 ホークはいかめしく二人を睨みつけたようだった。 二人が、特にラビニアが酷くうろたえたような吐息を漏らした。 「まだ、私たちが盗んだと思っているのですか?」 「少なくとも、わしの書庫にあった魔道書は何冊か無くなっている。この場所を知っているのはお前達だけ、であれば、疑うのは当然ではないか?」 ラビニアは、首を振った。 「いいえ、ホーク。魔道師たるもの、盗みは働きません」 「だと、いいがのう」 ホークが椅子に座る気配がした。 「とにかく、かくまっている子供を出してください。  その子は連れて行きます! 貴族、もしかすれば、王族の中に、その子の父母がいるかもしれません。  会わせるべきだとは思いませんか?」 「父親、母親は、確かに子供に必要だ。全員にではないがな」 「何ということを言うんですか?」 ラビニアの声には失望が滲んでいた。 「父母の愛を受けなければ、子供がまともに育つはずがありません!」 「それは、一方的な考え方だ」 ホークは椅子をぎい、と鳴らして反論した。 「いいえ、普遍的で真理に近い考え方です」 ホークは反論ができないのか、椅子を鳴らすばかりだった。 「おいでなさい! どこかにいるのでしょう?」 ラビニアの声に、司はしばらく迷った。 「学校に来れば、友達もできます! 父母も見つかるかもしれません! 貴方にとって悪いことは一つもありませんよ!」 友達……。 司は顔を上げた。もしも、そんなものが手に入るなら。 すぐに首を振る。学校に行ったってすぐに忘れられるはずだ。  むしろ、孤独が増すばかりかもしれない。ここにいれば、ホークは自分を忘れないでいてくれる。  学校に行ってしまえば、ホークとの絆もおしゃかになるかもしれない。 それは嫌だった。 司は、息を殺した。 「ラビニア教授監督官」 京極の低い声が響いた。 「少し、私にも話を」 ラビニアは戸惑ったようだが、すぐにうなずく気配がした。 「名前を知らないから、君、と呼ぶが。  君の知識欲は学校に来れば満たされる。  学友や父母に恵まれずとも、君を一流の魔道師にする環境は整っているとも。  ここにいても、当たり障りのないことしか教わることしかできないと私は推測する」 司は顔を上げた。 どういうことだろう? 「ホーク殿、貴方はその少年に強力な魔法を教える気は無いのでしょう? ただ、保護者として飼い慣らすお積りだ」 「何を言いだすかと思えば、くだらないことだ。わしは誰より魔道師の育成に長けているとも」 「であれば、分かっているはずでしょうね。ライバルや学友がいなければ、魔道師は育たないのですよ。  今の貴方のように、人を避けてばかりの臆病者に成り下がる。  その結果、黴が生え、やがて崩れ落ちてしまう」 「京極教授! 言葉が過ぎると!」 ラビニアは金切り声をあげる寸前だった。 司は意を決して、階段を登った。 二人の一メートル圏内に入り込めば、認識されるはずだ。 そうすれば、話しかけることができる。 司がずっと近づくと、二人はぎょっと身体を強張らせた。 司は、何を言うか決めていないのに気づいた。 「あ、その……」 「お名前は?」 ラビニアが優しく尋ねた。 「平井司」 司はラビニアの瞳をじっと観察した。 「平井、か……。ありふれた姓で、貴族のものではないわね」 ラビニアは司の頭に手を置き、癖毛をくしゃくしゃ撫でた。 司は、ラビニアを見上げ、やっと口を開いた。 「ご安心なさい! 貴方の本当の母親と父親を絶対に見つけますとも!」 「でも、僕はホークも大事な友達なんです! 一人にしたくない……」 ラビニアの瞳が輝いた。 「ホーク、貴方も教職に戻ればいいのですよ! それが一番です!」 ホークは唇を噛んでいた。 が、やがてそろそろと口を開いた。 「考えておこう。司、やはり、父母に会いたいか?」 「ずっと会いたかった。僕が何もない暗闇から産まれたかもしれないと思いながら生き続けるのはもう嫌だ!」 「そうだな。思えば、お前の気持ちを少しも考えていなかった」 ホークは椅子に深く座り直した。 「では、これを上げよう」 ホークは引き出しを引き、中からブレスレットを取り出した。鷹の羽と瞳の装飾が、銀色の光を放っていた。  ホークは司の手を取り、それをしっかりと手にはめ込んだ。 「わしからの、誕生祝いだ。一日遅くなったがな。決して外してはいかん」 それだけを言って、黙ってしまった。 「では、入学は今年の四月からです。  日本の一般的なシーズンとほとんど変わらないと考えてください。  勉学に必要なものは、ホークに聞いて揃えるように」 ラビニアはいそいそと言い残して、出口に向かった。京極はしばらく司のブレスレットとペンダントをじっと見つめていたが、やがて、ラビニアの後を追う。 二人とも、きびきびしていた。 司はホークを振り返った。 「ごめんなさい」 とても、後ろめたくなって、頭を下げると、ホークはクスクスと笑った。 「友達が欲しい、父母に会いたいと思うのは当然だ。それを想って謝っているならば……」 「違うよ、ホーク。僕は、ホークに無理を言ったのがすごく申し訳ないと感じたんだ」 「無理なもんか」 ホークは自分の腰に手を当てながら立ち上がった。 「わしも、ここから出る時が来たのかもしれない。  だが、向こう一年はここを出る気は無いよ。だから、その間、お前さんは一人だ。  父母が見つかる保証もない。ただ、友達は、うん、たくさんできるかもしれん。うん、たくさんだ」 「それは無理だよ。知っているだろう?」 「司、本当に強く刻み付けられた絆は、君のそのおかしな体質で断ち切られたりはせんよ」 それにな、 とホークは続けた。 「その腕輪、君の体質を弱める性質を持っている。  どう言うわけか知らぬが、君にかけられた呪いのようなものは、魔力を持つものにならば、効かなくなるだろう」 司は心臓が踊るように狂喜しているのに気づいた。 今にも小躍りをしたい気持ちだったが、それは流石に押さえ込み、腕輪を握りしめながら、ぽろぽろと涙を流した。 「友達ができるんだ? お父さんもお母さんも、僕を忘れないでいてくれるんだね?」 「そうだ。誕生日おめでとう、司」 ホークは司の頭をくしゃくしゃと撫でた。 「君が生きていてくれて、わしがどんなに嬉しかったことか!」 司はホークにすがりついて、泣き声をあげた。
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