序章 クロノス・カタストロフィ

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額に鈍い痛みを感じて、平井司は、目を覚ました。電車が止まった拍子に手すりに頭をぶつけたのに気づいた。 司のすぐ隣のドアが開いて、駅名が読み上げられたが、司は別段聞いていなかった。どこに停まろうが、例え、永遠に停まらなかろうが、関係なかったかもしれない。 目的地はなかった。 居場所もなかった。 今しがた見た夢を思い浮かべながら、司は自分によく似た王のことを、いろいろ考えた。 ただの夢だとは思えなかった。 物心つく頃から、クロノスがつけていたペンダントを司も身につけていたし、司は、ほんの少しだけ、普通でなかったから……。 ふと、どやしつけるような声が耳に響いた。眠い瞳を動かしながら、声の行方を追うと、巨躯の学生が、小さな学生を小突きまわしているのが見えた。 「ほら、金を貸せよ。すぐ返すって!」 「でも、この前の分も返してもらってないし」 「俺が約束破るってのか? ああっ?」 司は二人がやりとりする光景の向こうに自分の姿が写っているのに気づいた。反対側の窓ガラスだ。 司はガラスの中の自分が自分に命じるのを聞いた。 (争いだ。和解させなさい) 言われるまでもなかった。司が立ち上がると、ガラスの中の何者かは消え去った。少年らしく弱々しい両腕を見下ろしながら、司は深呼吸をした。 巨躯の学生の首筋に、刺青のような跡が見えたが、司は物怖じしなかった。 「そんなみっともないことはやめろ。恥ずかしくないのか!」  「っ、え?」 巨躯の学生は、一瞬、面食らったようだった。まるで、司が突然、どこか別の空間から出現したかのように。 けれど、巨躯の学生はすぐに元気づいた。 切る前のハムのような右腕を振り上げ、司につかみかかる。 司は肩に重い衝撃を受けてよろめいた。続けて、腹に左のパンチが飛んでくると、眼の中に火花が飛び散るかと思った。 続けて、腹を蹴りつけられると、もう立っていられなかった。 小さい学生は唖然としていたが、今が好機と見たのか、カバンを抱きしめて逃げだしてしまった。 「代わりにお前から金をいただくからな」 カモが逃げたことにすっかり腹を立てた巨躯の学生は、司のポケットを探った。司は命乞いもせず、ただ、相手を睨みつけていた。 かといって、財布を引きずり出されるのを止めることもできない。 巨躯の学生は、財布からお札も小銭も全て抜き取った挙句、電車に乗るための電子カードを踏み砕いた。そのまま、司を打ち捨てて、別の車両に向けて歩き出す。 司はそれをただ、見ていた。一歩、二歩、十歩ほど離れた時だっただろうか。 「あれ? なんだ、この金?」 巨躯の学生は手元を見下ろして、予想外の幸運に見舞われたような反応をした。 今の司とのやりとりを、すべて、忘れてしまったかのように……。 司は痛む腹を撫でながら、うめき声をあげて立ち上がった。 電車が左右に揺れると、脳が揺れ動いているようだった。吐き気を必死でがまんしながら、司は手すりにすがってあえいだ。 そのまま、ずるずると、椅子に座り込むと、ガラスに映った自分が歯噛みしていた。 「全能の王が、情けないよな」 司は吐き捨てて、立ち上がった。 かなりいいのをもらったらしく、まだまだ腹がズキズキ痛んだ。 粉々になった電子カードを拾い上げて、ポケットに突っ込み、次の駅で降りることを決める。 電車は耳鳴りのような音をぶんぶんと繰り返しながら、次の駅に停まった。 待っている時間が司には、五分や十分のことに感じられなかった。 はらわたが煮えくりかえるような憤りと、恥ずかしさが頭の中をひたすらぐるぐると回っていた。 何も考えずにドアに寄りかかっていると、急に開いたドアが司を放り出し、司は強かに額を打ち付けてしまった。 何人か乗客が押しかけたが、司の横を素通りしていく。 司は血の味のする唾液を飲み込みながら、出口へ向けて歩いた。 どうする? どうする? どうする? 金もなく、カードもないから、駅から外に出ることはできない。この駅には多分、簡易銀行もないだろう。 そもそも、今月分の生活費はもうゼロに等しいはずだ。 司は足を引きずりながら、正面にあったベンチまで歩いた。ゆっくりと腰掛けると、金属でできた手すりが妙に冷たかった。 両腕で頭を抱え、目を閉じる。 粉雪がコンコンと降り始めた。 司は足元に水たまりがあるのに気づいて、視線を落とす。 「放っておけばよかった」 (そんなことはない。君には人を助ける義務がある) 「くそくらえだ!」 司が叫ぶ。 ホームに響き渡るような大音響だったが、誰も司の方を見もしない。 「このままじゃ、凍え死ぬんだぞ! 腹だって空いた!」 言い終わるや否や、胃がしぼむような情けない音が響く。 (なら、万引きでもすればいい。盗めばいい。君の体質を持ってすれば、たやすいことだ。もっとも、君の良心がそれを許すならだけどね) 司は水たまりを憎しみに溢れた表情で睨みつけた。 「君の声に従って、お節介を焼いてきたよ。何度も何度もね! でも、その度にバカを見てきた。何の意味があるっていうんだ?」  (意味ならある) 「……聞かせてもらおうじゃないか! 金を取られて、空きっ腹で凍え死ぬことのどこにご立派な意味がある?」 (君が君でいられる) 水たまりの声に、司はしばらく反論ができなかった。 「こんなこと、いつまで続くんだ?」 すがるように尋ねた頃には、水たまりのなかにいた司の影は消えていた。 司は、せもたれに寄りかかり、目を閉じた。
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