序章 クロノス・カタストロフィ

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  寮の階段を降りて、自分も時間魔法の寮に行こうとしているときだった。   中庭に夕日が降り注ぎ始め、生徒たちもいなくなっていた。   そう言えば、歓迎会のようなものは行われないのだろうかと、司はふと考えた。ようやく恐怖が和らぎ、高鳴っていた心臓も緩やかになりはじめた頃だ。   司は前を見て、立ち止まった。   コンクエスタが手下三人を引き連れて、司の前を遮っていた。   司は立ち止まった。 「平井司、平井なんて姓の貴族は初めて聞いた。お前は何者だ?」   司は答えられなかった。 「お前が、何かすごい家柄の貴族ならまだ負けたって、納得がいく。だけど、お前はどうやら何も誇るべき姓の貴族じゃないってことだろ?」   ぎりぎりと歯を食いしばり、司をにらみつけた。コンクエスタの手が、ペンダントに向かった。司もペンダントに手を置いたが、今は、魔法式のメモを消してしまっているから、迎撃の手段はなかった。   司は、逃げようかと視線を左右に巡らせたが、コンクエスタの手下の二人が、司の左右を塞ぐ。   コンクエスタが魔法を唱えた。   司の出したものより、ずっと大きな歯車が、腹にめり込んだ。   司は地面に這いつくばりながら、コンクエスタを見た。   拍子抜けの顔をした後、コンクエスタは愉悦に包まれた表情を浮かべ去っていった。司は、霞む視界を必死でつなぎとめながらも、中々に立ち上がれなかった。   必死で立ち上がろうとしたが、ダメージ以上に、ウリエルへの恐怖が身体を縛って立てないようだった。 「おや、お前は」   頭上から声がした。   司は、ちょっとだけ首を回した。   気遣わしそうな表情を浮かべるのは、ディアだった。司はディアを振り返るため、地面を転がった。ディアは手を差し伸べた。ひんやりとした手が額に当たる。 「このような所では、寝にくかろうに。ベッドには行かぬのか?  野宿か?」   ディアは、少し、ずれたところがあるのかもしれない。   異世界から来たのだから、価値観が多少違っても無理はない。   司は首を振った。 「ふむ、嬲られたか」   ディアは司の腹のあたりを見て、顔を曇らせた。 「我が事のように痛い。悲しい。小さな命が傷つけられるのは見ていられない」   ディアは司の腹のあたりを撫でた。   腹に脈打っていた痛みがあっという間に引いていく。   司は上体を起こして、自分の身体を見下ろした。驚くほど軽い、恐怖も痛みも完全になくなっている。   お礼を言うために顔を上げると、ディアが戸惑いの表情を浮かべた。   ディアは司の頰に手を伸ばした。   鼻と鼻がぶつかるような距離まで顔を近づけると、額同士がぶつかった。 「不思議じゃ。お前がやけに近く感じる。お前とは、何か、つながりがあるような気がする。とても、大きなつながりじゃ。お前には母がおるか?」   ディアはか細い声で尋ねた。唇がほんのわずか、緩んでいる。 「いない、です。僕は、黒い穴から、生まれたんだ。きっと」   司は目を閉じた。どこまでも闇が続く。闇の中心に一人、立っている。いや、もう一人が立っていた。ウリエルが前方に立っていた。冷酷に瞳を光らせて、笑っている。   司が唇を噛み締めていると、額をぱちりと打たれた。   司は目を開けた。   ディアがいる。 「生きとし生けるものすべて、母がいる。いつか、見つかる。見つからなければ、妾がなる。だから、そんなに寂しそうな顔をするでない」   ディアは司の手を取り、引っ張り上げると、くすりと笑った。   司はディアにお礼を言って、頭を下げた。 「あ、ありがとう。ディアさん」 「お母さんでもいいぞ」 「あ、それは、まだ」   司はうつむいた。うつむいた拍子に、ペンダントに映る自分の顔が見えた。リンゴのように赤い顔をしていた。   司はあわてて顔を引き締めた。 「少し、歩こう。お前に興味が湧いた」   司が返事をする前に、ディアは司の手を取って歩き出した。   司は赤ん坊になったような気分でディアの後ろを歩いた。   渡り廊下をまたいで、外に出ると、巨大な校舎がそびえ立っていた。ドーム状の建物と、時計塔のような建物、教会のような建物、もう一つ、ドーム状の建物がある。   静かな金色の星の光と、赤い星の光、青い星の光が蛍のように行き交って明滅していた。 「魔力が溢れて、光の粒子となっているらしい。普段から魔法が頻繁に使われるから、魔力が壁や床、天井に堆積し、浮かび上がる。昼間は太陽の光で見えないが、夜はこのように光の粒子が見えるのだそうな」   光の粒子を目を細めて見ていると、ディアが説明をしてくれた。 「魔法がある限り、お前が闇の中に消えてしまうことはきっとないよ、司」   ディアの声は歌うように綺麗で、涼やかだった。   司は光の粒を握りしめながら、うなずいた。 「明日から、授業であろう?  不安はないか?」 「不安だらけだよ。さっきも魔法にやられたんだ」 「そうであったか、大丈夫じゃ。お前は妾の子、きっとできる」   本当の母親じゃない、と、心のどこか奥底で抗議している自分がいたが、とても嬉しかった。   自然と、右手がディアの手を強く握っていた。ディアは振り返り、微笑んだ。 「甘えん坊じゃのう」   ディアは、ふふふと笑った。   司は恥ずかしくなって手を離した。 「やっぱり、違う。ディアは母さんじゃない」   恥ずかしさを紛らわせるために、司は必死で強がった。   ディアは悲しそうにした後、後者の陰に隠れたベンチを一つ指差して歩き出した。司は迷ったがついていくことにした。  ベンチは、真鍮色のぴかぴかしたものだった。ディアはベンチの前の方にちょこりと座ると、となりの席をポンと叩いた。   司は渋々となりに座った。 「夢で会ったのう。そう言えば」   ディアは突然に思い出したのか、それとも言う機会を伺っていたのか、少しわざとらしく、顔を上げた。   司はうなずいた。 「寂しい、と言うておったの」   答えたくなかった。今は、出来る限り強がっていたかった。 「母の前でまで強がることはないではないか」 「僕は、本当のお母さんとお父さんを探しにここに来た。今も、その気持ちは変わらない」   強く、ディアを見つめる。 「僕、もう寝るよ。ありがとう、ディア」   ベンチから立ち上がり、司は走り出した。   ディアの肩が少し小さくなるのが何故だか分かった。   光の粒子と一緒に走りながら、司は渡り廊下に入った。
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