序章 クロノス・カタストロフィ

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また、口の中が血の味でいっぱいになってくると、司は必死で唾液を飲み込んだ。右の頰がぴりぴりと痛む。 痛む頰を手で押さえながら司はひたすら考えた。 どういうわけかは知らないが、司は他人に認識されない。 十二年間生きてきたが、ずっとそうだった。 司の方から他人に干渉すると、一時は認識されるのだが、すぐに忘れらてしまう。 そのせいか知らないが、父親と母親は物心ついた時から存在しなかった。 司はホームを見渡した。 自分と同じくらいの歳の少年が、母親と歩いている。さすがに手はつないでいないが、二人の距離感は近く、とても幸福そうに見えた。 「教えてくれ、僕の母親はどこなんだ。父親は?」 水たまりに問いかけるが、答えはない。 「今日は、僕の誕生日だ。十二歳の、でも、一度も人に祝われたことがない。僕が何をしたっていうんだ?」 やはり、答えない。 情けない顔をした自分が見返してくるだけだった。 答えを待ち、黙り込んでいると、粉雪が大粒に変わり、無慈悲に風が吹いてきた。 一瞬で体温が下がるのを感じる。手がかじかみ、指の先の神経が麻痺するのに気づいた。 頭がぐわんと音を立てたかと思うと、猛烈な頭痛が響き渡る。 司は両手で自分を抱きしめながら、ベンチに寝転がった。 目を閉じて、短い生涯のことを思った。何も成し遂げていないし、何も満足のいくものを手に入れていない。 愛情を築けても、すこし離れれば全部、無かったことになる。 誰が、こんな仕打ちを自分に課したのだろうか。 司は目尻から流れた涙が凍りつくのを感じた。 両目が軋むように痛かった。 寝てはいけない! 本能が頭を駆け巡った。 司は飛び跳ねるように起き上がり、急にはっきりとした頭を回し、ホームを見渡した。 呼気が荒かった。 肺の表面に氷の膜が張っているような嫌な感触。司ははっきりとした意識で、重い体を引きずった。 司は、夢のことを思い出した。 司には、もう一つだけ、普通でないことがあった。 夢の中から、何かを引っ張り出すことができる。 ありったけのイメージをふりしぼって、白い靄がかかったような夢を思い起こす。  細部を思い出し、今のこの状況を打開できる何かがそこに無かっただろうかと考える。 イメージが肝心だ。 少しでもあやふやな面があると、引っ張り出すことができない。 司はひたすら考えた。頭は、たしかにはっきりしているが、だからといって快調ではないらしく、いつもよりひどく時間がかかっているような気がした。 イメージしろ! イメージだ! 宮殿には、篝火があった。 それをイメージしさえすればいい! 司は必死で篝火の材質から、炎の輝きまで鮮明に思い出そうとした。  そのうちに、あたまのなかで篝火が明確な像を持ち、はっきりとした形を持ち、本物の暖かさを発揮し始めた。 と、司は何もない場所から、篝火を呼び出した。 篝火を抱きしめる。 火傷はしないと分かっていた。 暖かな炎が体を包み込み、束の間、不安と空腹を忘れた。 目を閉じて、今度は心地よい眠りに浸った。 雪は一層に吹き荒んだが、とりあえず、凍え死ぬことだけはなさそうだった。 十分、十五分、もっとだったかもしれないし、もっと短かったかもしれないが、司はとなりに気配を感じて、目を開けた。 みょうちきりんな格好をした老人がとなりに座っていた。 フード付きのローブに、魔法使いが持つような木製の杖、伸び放題の白いヒゲ。司はぎょっとして、老人を見つめた。 老人は司に笑いかけた。 「面白い力をお持ちだね。高度な、うーん、そう、高度な召喚魔法。しかし、こんなところで使うのは感心しない。そう、感心しない」 老人は口癖なのか、同じことをくりかえしながら、優しげに笑った。 司は、しばらく老人を注視していたが、そのせいで、イメージがくずれた篝火は消え去ってしまった。 「お金が無いのかね?」 「ンー、魔法って?」 「魔法は、そう、魔法でしかない。ほかの説明は、うん、できんな。うん、できん」 思わず老人の言葉を無視して尋ねるのだが、老人は老人でマイペースだった。 「私の名前はな、ホークという」 「外国人?」 「いや、むしろ外世界人というべきかな」 「もしかして、僕にかかった魔法がわかるんじゃ無いですか? これは、なんなんですか?」 「難しい質問だ。私にも分からない」 ホークの言葉に、司はすっかり落胆して、顔をうつむけてしまった。 「ちょっとだけ手を貸そう」 ホークは司へと囁き、両瞼に人差し指と中指を当て、ゆっくりと閉じさせた。 司が次に目を開けた時には、ホークは消え去っていた。 司の電子カードと、財布の中身が元に戻っていた。 司はぎょっとして、あたりを見渡した。  あの老人はなんだったんだろう? すぐに考え始めたが、まず、空腹に負けて、司は改札へと走り出した。
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