序章 クロノス・カタストロフィ

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  翌朝、カンカンという音で、司は叩き起こされた。寝ぼけた頭で今日がどういう状況か考えて、腕時計を見ると、朝の六時だった。寝坊では全然ない。授業は八時からだ。   司は床に足をついて、靴を探した。   靴はすぐ下にあった。   司は靴を履き、靴紐を結んだ。   お腹が空いた。   と考えると、机にサンドウィッチと牛乳が置かれていた。司は、机の方へと歩くと、椅子に座り込んだ。サンドウィッチをぱくついて、教科書の準備をする必要に思い至った。   卵のサンドと、ハムのサンドを飲み込み終え、スーツケースへと向かう。   と、ドアがトントンと叩かれる音がした。   司はドアまで歩き、開いた。   ヤクートが立っていた。 「時間割見せてくれよ。一緒の授業は無いかなあ?」   ヤクートの手には時間割が握られていて、ひらひらと揺れている。司は、すぐに時間割表を取りに戻った。   ヤクートは遠慮なく上がり込んで、司がさっきまで座っていた椅子にどっかりと腰を下ろした。   司は時間割表を取った後、ベッドに座った。   ヤクートも司もしばらく見つめあっていたが、急ににやっと笑いあった。 「昨日は大変だったなあ?」 「そうだね。そうそう、ヤクートは大丈夫だった?  死にそうな顔をしてたよ?」   時間割表を渡しつつ、ヤクートのにやけ顔を観察してみる。ヤクートはぽりぽりと掻く。 「いやあ、実はあんまり覚えていないんだ。急に、自分が獣になったような感覚でさ。前にもこんなことがあったんだけど。その時も全然、前後のことが思い出せなくて」   司はうなずいた。   ヤクートは言いにくそうに黙った後、覚悟を決めたのか、すぐに口を開いた。 「お前は本当に信頼できるやつだから、友達だと思うから言うんだけど。その、どうやら、俺って。憑き物筋ってやつらしいんだ」   司は憑き物筋という言葉は知らなかった。   首をかしげると、ヤクートは唇を噛みながら、続けた。 「憑き物ってのは要するに悪魔とかが体に入り込んで精神を侵すことだ」   ヤクートはどうやら、緊張のあまり、呼吸のリズムが整わないようだった。 「俺は、時々、精霊に身体を乗っ取られて、自分でも分からない行動をすることがある。……虚数世界では、恐れられてるんだ。憑き物ってのは。だって、いきなり何をするかわからない、本当におかしな体質だから。俺は、この血が憎くてたまらない」 「どんな感覚なの?」 「ずっと、精霊に話しかけられているんだ。殺せ、殺せ、壊せ、壊せって」 「大丈夫、大丈夫、君が襲ってきたって怖くもなんとも無いね」   不思議なことに、司は少しも怖いと思わなかった。   ヤクートは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。   司はにやっと笑った。   司にも、もう一人の自分が話しかけてくる感覚がある。   だから、気にする必要はない。 「怖くない、 本当か?  お前は、本当に思ってるのか?  その、憑き物が怖くない?」 「精霊は怖いものだって分かるけど、ヤクート自身は怖くない。もしも、僕に襲いかかってきたら、全力で相手をして、君から精霊を引き剥がしてみせる。だから、大丈夫だよ」   司は、心の底から語った。   ヤクートは感じ入ったように、目を細くした。 「あ、ありがとう、司。本当に嬉しいよ。よ、よーし!  時間割表を確認しようぜ!」   ヤクートが張り切って、手をブンブンと振ったので、司はハイタッチの位置で手をパチリと交わした。   二人でまた、にやりと笑った後、時間割表に目を落とす。 「へえ、ほとんどおんなじだね?  僕は一限目二限目が、召喚術。三限目が時間魔法マスター過程。四限目が、星座魔法。五限目が、チガク」 「俺は、一限目二限目が、召喚術。三限目が空間魔法マスター過程。四限目が星座魔法、五限目が、チガク」   ヤクートはしゃべるほど、顔を明るくしていった。 「やったな!  マスター過程以外は大体、全部一緒だぜ?  うわ、すごいなあ。よかった。初めての男友達と、こんなに一緒に勉強できるんだな?」   ヤクートは涙目になっていた。   司は、ヤクートの気持ちがよく分かった。   ヤクートもきっと孤独だったのだ。 「あの、ヤクート……」   司が口を開きかけた時、また、ドアがコツコツと鳴った。   司は、ヤクートに断って、ドアの方へと歩く。   ドアを開くと、ユリィが立っていて、自信なさげに笑った。司は、笑い返して「どうぞ」と部屋へ手をかざす。   ユリィは部屋に入った瞬間、ヤクートを見つけた。 「ヤクートも来てたんだね?  私、時間割表の確認にきたんだ!」 「なんだ、俺と同じかよー。考えることは一緒だな?」 「ヤクートも?  ふふ、本当に同じだね」   ユリィはにこにこ笑ったが、顔色がどこか優れなかった。 「座りなよ」   司はベッドを指差して、自分は壁によりかかった。   ユリィはおずおずとベッドに座り、少しだけ司の方に身体を寄せた。 「でも、噂では、マスター過程以外は全部、おんなじだって聞いたよ?  私は、一応、不安だから来たんだ」   ユリィはポケットから、時間割表を取り出した。   三人で時間割表を付き合わせると、噂は正しいようだと気づいた。   なんとなくおかしくて笑いあっていると、またドアがこつこつと鳴った。   司は二人に断って、入口へと行き、ドアを開いた。   ディスエルが立っていた。 「食べ物をくれないか?」   開口一番、頼み込んだかと思うと、ひもじそうな顔をする。 「ごめん、朝食はもう食べちゃった。あ、牛乳は残ってるよ」 「それでいい。持ってきてくれないか」   ディスエルは入るなり、右側の壁に寄りかかり、ずるずると座り込んだ。   司は牛乳の瓶をディスエルに渡し、飲み終わるのを待った。   そう時間はかからなかった。ディスエルは牛乳を飲み干し、お礼を言う。 「ありがとう。平井、やはり君はいいやつだな」 「そんなことないよ。それより、寮の食事は出ないの?」 「今は断食期間中だ」   ディスエルは本当に気だるそうに説明した。   司は気の毒に思いながら、スーツケースの方へと向かった。何か食べ物はないだろうか。 「断食期間ってもう終わってんじゃねえのか?」   ヤクートが首を傾げ、眉をひそめる。ほんの少しだけ非難するような目つきだ。 「断食は昨日までだったが、昨日、私が食事をしたのは自明の理だったわけだ。そのせいで、断食延長だ」 「自業自得だよったく」 「私が望んだわけじゃない。別に望んでもいないのに、なんで断食なんかしないといけないんだ」   ディスエルの声は明らかに苛立っていた。司はお菓子を渡しながら、ディスエルの額に手を置いた。 「熱はなさそうだね。お菓子を食べたら、しばらく横になるといいよ」 「いや、それはいい。臭いから」 「僕のベッド、臭いかな?」   司はヤクートとユリィを振り返った。二人ともキョトンとした顔で首を振った。 「いや、違う。私の匂いだ。長時間、香を焚いた部屋にいたから、匂いが移ってしまっている。この不愉快な匂いを君に嗅がせるのは、少し、心苦しい」   ディスエルはお菓子を受け取って、一本を口に運んだ後、ずるずると部屋を後にした。 「ディスエル?  大丈夫かい?  臭いなんて気にしないよ?」   司は呼び止めたが、ディスエルは首を振った。 「大丈夫だ。また会おう。本当にありがとう。だが、もう私に手を貸さなくていい。君たちに迷惑がかかる」   ディスエルは壁に手を突きつつ、とぼとぼと歩いていた。 「迷惑なんかじゃないよ。手を貸したいんだ。本当に!」   司は駆け寄りたい一心で部屋を出たが、ディスエルは振り返らなかった。 「行っちゃった」   ディスエルが遠く消えていくのを見ると、司は口から出かかった言葉が押し込められるのに気づいた。   やっぱり、何とかしなければならない。   神話魔法の教義を正す必要がある。   ペンダントの中の自分が力強く言う。司は、振り返った。ヤクートとユリィが何だか、非難するような表情で司を見ていた。   司は、その様子に少し戸惑ってしまった。 「どうしたの、二人とも?  なんか、怒ってる?」 「平井君って、誰にでもそうなんですか?」 「俺だったら、絶対、厄介払いするぜ?  食事代だって、馬鹿にならねえしな」   思い思いに自分の意見を言っているが、司はよく理解できなかった。 「だって、お腹が空いてて、ご飯を食べたいならあげないと死んじゃうよ。  ディスエルは、演技でもなんでもなく弱ってるよ?   この世界の人が、誰もディスエルに手を差し伸べようとしないなら、僕が差し伸べないと、一人になるよ?  そんなの、嫌に決まってる。一人は寂しいよ」   あんなに、ディスエルを助けてしまう理由が今、少しだけ理解できた。言っているうちにようやくだ。   司は一人の辛さをよく知っている。ディスエルが孤独なら、もう一人の自分の声がたとえ、助けるなと命じても、助けてみせる。   ヤクートもユリィも同じだ。   多分、二人とも今まで孤独な時間を過ごしてきたのだと思う。   だから、決して、見捨てたりしない。   鐘が鳴った。   時計をみると、七時だった。 「授業時間まで、少し散策しようよ」   司が提案すると、二人ともうなずいた。   まず、スーツケースから教科書を何冊か引っ張り出した後、司は、ドアを開けて、二人を待った。   ヤクートもユリィも外に出て、三人で廊下を歩く。 「すごい学校だよね。お城みたいだ」   司がヤクートとユリィを振り返って感想を述べてみると、背後にコンクエスタが見えた。コンクエスタは、意地悪そうに唇を歪めている。   手下の三人が後ろに控えていた。 「俺の家よりは小さい」 「へえ、すごいんだね?」   司はちょっとだけ警戒しながら、低い声で答えた。 「お金持ちなんだ?」 「お前みたいに貧乏ではない」   コンクエスタは明らかにいびるような口調だったが、司は別に傷つかなかった。貧乏なのは生まれつきだが、貧乏でも生きてけることを司はよく知っているから。 「随分みすぼらしい格好だなあ。乞食が二人」   ヤクートはいきり立った。   コンクエスタは満足そうだったが、司の表情を見て、気に入らなそうに鼻を鳴らした。 「昨日、お前は俺に負けた。もう少しへりくだれよ!」 「負けたからって肩身を狭くする必要はないだろ」 「なんだと?  敗者は勝者にかしずくべきだ!  そういうものだ」 「そもそも、僕は負けたつもりはないよ。君の卑怯な不意打ちに倒れただけさ」 「卑怯だと?  俺は真正面からお前を叩き潰した!」 「背後からじゃなくても、君はその手下を使って、僕の左右を塞いだ。それが卑怯じゃないとでも?」   コンクエスタは苛立ちの表情をつのらせた。ぎりぎりと歯を食いしばり、憎しみの表情だけで司を殺そうとするようだった。  司は、あまり、怖いと思わなかった。この場で魔法をぶつけられそうになっても、今はヤクートとユリィもいる。   司はコンクエスタの方まで歩いた。コンクエスタはあわてて身構える。 「くだらないことで、喧嘩しないで、仲良くしよう。君の卑怯には目をつぶる」   コンクエスタは怒り心頭に発したのか、顔をほとんど青色にして司をにらみつけた。司は、笑いかける。   拳が飛んできたが空を切り、司は目の前を過ぎ去っていくコンクエスタの拳をじっと見つめていた。  反射的に後ろに身体を引いてしまったらしい。強力なフックが完全にいなされて、コンクエスタはバランスを崩した。   司は、さっと身構えながら、さらに後ろに下がった。   ヤクートが司のとなりに並び立ち、二人で拳を構えると、手下三人がペンダントに手を置いた。   司は、心強く思いながら、コンクエスタたちと正対した。 「君たち?  喧嘩かな?」   司の背後で前触れもなく声がしたので、司とヤクート、ユリィは振り返った。中国の貴公子のような格好をした大人が、微動だにせず立っていた。   どうやら、教師であるらしい。   全員、あわてて身体を止めると、教師は残念そうにした。   中国人かは分からないが、少なくともアジア系の人で、切れ長の瞳に、細いあごをした端正な顔の男性だった。 「ロウ・フーレンと申します。戦闘座学を教えるためにここに来たのですが。この学校の生徒の戦闘を見たいと思っていました。ぜひ、やってみてください。さあ、さあ」   眩しいくらいの笑顔を浮かべながら、ロウは両手を広げた。コンクエスタは完全に興が削がれたらしく、踵を返してどすどすと歩き始めた。手下がすぐに後を追った。   ロウはオヤツがお預けになったような顔をして、身体の背後で手を組んでしまった。 「でも、多勢に無勢でしたかね。君が、どうひっくり返そうとするか、楽しみでしたが」   ロウは、肩をすくめて、歩き出した。   ヤクートもユリィもぽかんとしていた。司はなんとなく、ロウに好印象を持った。問題にしなかったのもそうだし、この人の授業を受けてみたいと思える話し方だった。 「誰だったのかな?」   ユリィは、慎重に司に尋ねた。   ヤクートが肩をすくめて、 「いや、そりゃあ、戦闘座学の先生だろ?」 「そうじゃなくて、どんな魔導師なんだろう?  戦略家の魔道師なんて、あんまり聞かないけど」   司は、首をかしげた。 「あ、見て!」   司は時間割表を見下ろした。   六時間目の授業の場所に、戦闘座学が表示され、教師の紹介が浮かび上がった。 「……この人、魔導師じゃないんだ!」 「ちょ、ちょっと見せてくれよ。魔導師じゃないって?  そんなアホな」   ヤクートもじっくりと紹介文を読んだが、最後まで読み終わって愕然としたようだった。 「中国を中心に、いろんな場所の戦略書を読み続け、戦略の体系を知り尽くした。アメリカ軍で白兵戦を教え、功労賞をいくつか取っている。すげえなあ」   ヤクートは感嘆の吐息を漏らしている。   司にも、すごい人なのだということが伝わってきた。   ユリィは、少し不安そうな顔をした。 「じゃあ、やっぱり、来年から本格的に始まるんだね。戦闘座学。私、人を殺す作戦を考えるの嫌だな」 「それは、勘違いだよ、ユリィ。戦略の意味はまったく真逆なんだ」   司はあわてて首を振り、ユリィに語った。   ユリィは、首を傾げた。 「いいかい、ユリィ、孫子っていう戦略家がいるんだけど、孫子はこう唱えている。  戦争は、最小の労力で、最大の成果を得るためのものだから、いたずらにし続けてはならない。  要するにね、できる限り人を殺さない、相手も自分も殺さないために、戦略があるの」 「そ、そうなんだ?  そんなに素敵なものだったんだ!」   ユリィは、目を輝かせた。 「もちろん、戦争をする以上、人は殺さなきゃならないけど。戦争はしないのが最良だって、孫子はちゃんと分かってるんだ」 「す、素敵だね!  とっても素敵!  私も戦闘座学、習ってみたい!」 「ノートを取って見せてあげるよ」 「本当!  ありがとう、ありがとう!」   司の手を取り、ぶんぶんと振った後、ユリィははしたない自分を恥じるようにもじもじした。   ヤクートが、にやにやしている。ユリィは恨めしげにヤクートを見つめたが、すぐに首を振って、歩き出す。 「学校回ろう!  いろんな所があると思うから、一通り」   ユリィは先ほどのハイテンションを隠すためか、急いで二人に提案した。司はユリィの隣を歩くことにした。   ヤクートは少し後ろを歩いて、相変わらずにやにやしている。   ユリィはヤクートをほんの少しだけ煙たがるような表情で見ている。   司にはその意味はよく分からなかった。   よく考えてみると、ユリィが隣を歩いているのが、少しだけこそばゆかった。   司は、うつむいて、地面の様子を見た。真鍮色の床が目の前で途切れている。あわてて足を止めるのも遅く、ドアに正面衝突してしまった。   司は額を抑えながら、寮のドアの前でペンダントをくるりと回した。   ドアは開いた。   三人は、すぐに、ドアを通り抜け、螺旋階段を降りていった。   夜とは大分、様子が違っていた。光の粒子は浮かんでいないが、金色の光が螺旋階段を全体を染めていた。光は厚く、眩しい。   目眩がするほどの光量で、司は思わず目を閉じた。   ユリィとヤクートも、目を細めていた。あまりに眩しいので階段を踏み外しそうになりながら、三人は急いで降りた。   回るといっても授業時間までは一時間だから、あまり時間はないはずだ。   少し急がなければならないことになる。   螺旋階段を駆け下りると塔の入口が見え、少しだけ光が薄くなった。   三人で、螺旋階段を降り終えると、辺りに視線を回す。   すぐに、渡り廊下。左手には中庭が見えた。校舎は右側だ。三人は渡り廊下を飛び越えて、校舎の方へと向かった。   三人が外に出ると、生徒たちが、がやがやと騒ぎながら、どこか一方に集まっている。   司はヤクートと、ユリィと一緒に騒ぎの場所に行くことにした。   みんな、とても深刻そうな、あるいは少し面白そうな顔をしていた。   なぜ、みんなが集まっているのかようやく分かった。   昨日の地球のような惑星が、空に浮かんでいる。少しも遠ざかった様子はないし、ましてや消え去る様子もないようである。   司は、もう一つの地球をぼうっと見つめた。   あれが、異世界であることを、この中の誰がどれだけ知っていることだろうか?   司は、少しだけ不思議な気分になった。   この二人には言うべきだろうか?   司はヤクートとユリィを振り返って、考え込んだ。ヤクートは心配そうに司を見た。 「あの女の人、誰だったんだろうな?」   司を意味ありげに見る表情を伺うに、司が何か知っているのを悟っているようだ。   司は、口を開いた。 「よく分からないけれど、別の世界、本当に異世界の人らしいよ」 「そうなのか!  魔法ってのはすごいな!」   ヤクートは、元気づいた顔をして、また異世界を眺め始めた。   ユリィはヤクートの喜びが少し、理解できないようだった。 「私は、少し、怖い……。でも、あの人は、きっといい人だよね?」   ユリィが言う、あの人とは、きっとディアのことだろう。   ウリエルよりは何倍もいい人に見えたが、と言いかけて、司は言葉を飲み込んだ。   ユリィは口ごもる司に気づかないようだった。   三人は、ゆっくりと横歩きしながら、ほかの設備を見ることにした。あの地球のような惑星は、ウリエルのことを思い出させて嫌だった。   建物と建物の中を縫って歩き、人混みをかき分けていると、横目に気になるものを見たような気がして、司は足を止めた。   ドームの脇にビルのような建物があった。その奥の奥に、女子生徒と男子生徒が隠れて、カードゲームをやっていた。   男子生徒は酷く困惑したように、女子生徒の方を時折盗み見ている。   女子生徒は、ディスエルだった。   ディスエルは、黙々とカードを台座の上に置いていたが、やがて男子生徒が悔しそうに差し出したコインを全て引ったくる。  その足で、司の方へと一直線に走ってきたかと思うと、金貨を何枚か手渡して消えてしまった。   多分、食堂の方に行ったのだろう。   司はお腹いっぱい食べられるといいな、と思いながら、ディスエルに手を振った。 「あいつ、あんなに律儀だっけ?」 「か、賭けって禁止だよね?  しかも、ディスエル、神話魔法の寮生なのに。ばれたら、きっとまた断食だよ」 「もう、関係ないのかもな。何年も断食が続いているって噂、知ってた?」   司は首を振った。 「もう、お前の所にお嫁さんに行く以外、あいつが生きる道は無いかもな」   ヤクートが冗談めかして言うと、ユリィが咎めるように睨んだ。   司はくすりと笑った。 「ディスエルは嫌がりそうだけどね」   司は、むしろその障害の方が大きいと思った。 「そうかな、あいつがあんなに親しげに話す奴を俺は知らない」 「確かに、私もそんな気がするな。私にだって、あんなふうに話しかけてくれないよ。お金だって返さないと思う」   ユリィは渋々と肯定した。 「だろ?  もらってやれよ。それが、あいつを解放する唯一の道だぜ」 「冗談はやめろよ。僕たち、十二歳じゃないか」 「だって、ユリィの同い年の従兄弟は結婚してるだろ?  魔法の才能がないからって」   ユリィは唇をキュッと結んだが、すぐに頷いた。   司は想像もしなかった話の進み方に、ぐらぐらと身体が揺れるのを感じた。   ばきり、と音がした。   甘い匂いの液体が数滴、飛び散ってきた。司はそれがりんごのエキスだとすぐに気づいた。ヤクートの頭の後ろで弾けて爆発したのだろう、りんごは粉々になって四方八方へと飛び散った。   ヤクートがひっくり返った。   ディスエルが投球動作終盤で固まっていた。   頰が酷く赤かった。 「このお節介が!  君も君だぞ平井司、なにを真剣に考えているんだ。飢えようがひもじかろうが、私は私の人生を生きる。誰かの付属物などごめんだ」   ディスエルはもう片方の腕に袋を抱えていた。りんごが三つ入っていた。飛び散った分を数えないと、四つだ。   ディスエルは司の方へと、つっけんどんに歩き、りんごの袋を渡した。袋の中から、一個を取り出して、噛み砕きながら、ディスエルはどこかへ消えてしまった。 「進歩的な考えだね」   嵐が過ぎ去った後で、司が呟いた。   ヤクートがやっと起き上がってきた。頭を痛そうに歪めている。脳震盪の一歩手前だったのか、少しぼんやりしていた。   司はヤクートを助け起す。 「いい案だと思ったのに」   本気でしょげ返った表情で、ヤクートが呟いた。   ヤクートが完全に善意で言ったことが証明されたが、司はそれでまた驚いてしまった。   司はこの世界における結婚の観念がよく分からないことに気づいた。 「貴族だから、政略結婚みたいなこともあるのかな?」 「もちろんあるよ。より優秀な子供を産むために、あの魔法が使える子と、その魔法が使える子を交配させよう、みたいな」   ユリィは自分でもちょっと信じられなさそうに説明した。   司にはユリィが少し怯えているように見えた。   自分の中に怒りが沸くのを感じた。怒りを感じたのは司自身もだったが、それ以上に、常に司の隣にいる、いつも鏡を見るといる自分が、酷く怒り狂っているように見えた。   司は、しいっと、ペンダントに映った自分を諌めた。   するとペンダントの自分は消えてしまった。 「結婚相手を選べないのが普通なんだね?  ユリィは不幸なことだと思う?」 「分からないけど、好きな人ができてしまったら、不幸だと思う、かも」   ユリィはちらりと司の目を見た後、俯いてしまった。   司にはちょっとだけ、ユリィの気持ちが分かった気がした。   貴族だからといって、別に幸運なわけではないようだ。 「俺には、全然わかんないね。俺は、言ってみれば原住魔法民族で、好きな子と結婚するはずだったから」 「その子にも、合意の意思があったら、だけどね」   ユリィはちくりとヤクートを攻撃した。ヤクートはふん、と鼻を鳴らした。 「ヤクート、はずだったって?」   司がたずねると、ヤクートは唇を噛んだ。 「四歳にもならないうちに死んだんだよ」   ヤクートはなんでもないように返答する。ユリィがしょげ返ってしまったのを見てヤクートは首を振った。 「この話はたくさんだ。それより、さっきのカードゲーム、めちゃくちゃ面白いらしいぜ」   ヤクートは目を輝かせて話し出した。   司もユリィも話に集中することにして、先を促すように黙った。 「要するに、魔法使い、陰陽師、召喚師、超能力者っていう架空の術者を演じて、魔法の札を一斉に出していく。  攻撃の札、防御の札、とか出し合うんだ。だから、相手の手を読みながら、札を出していく楽しみがある。  しかも、札を出すと、炎が出たり、防壁が出たり、臨場感もあるんだよ」   ヤクートは、両手を広げて力説する。 「本当に面白いんだ。金が無いから札が買えないけどな。いや、でも一度買ってさえしまえば、ディスエルみたいに稼げるわけだ」 「ディスエルみたいに出来るとは思わないけどね」   ユリィは今度は、司にしか聞こえないように囁いた。   司は曖昧に微笑み返すことしかできなかった。 「でも、ディスエルは凄腕みたいだね」 「ディスエルが魔法以外の勝負事で負けたの、みたことないかもしれない。すごく頭がいいの。本人は悪魔の叡智って気取ってるけど。でも、本当に冴え渡ってるときは、神様みたいに何でも見抜いちゃうんだ」   ユリィが物思いに耽りながら補足した。 「ディスエルは、もしかすると全知の才能があるのかもしれない。  それと、魔法の才能は間違いなくある。  神様を本気で信じていれば、神話魔法なんて息をするように使えたんじゃないかな。  でも、ディスエルは神様なんて信じない。  なんでだろうね、神様は百パーセントいるのに」   魔法の存在がある以上、神様を信じる信じない以前に、神様はいる。なら、信じるのは当たり前だろうと、ユリィは考えているのだろう。   けれど存在しようとしまいと、その神様が自分にとって有益な存在でないなら、信じるか信じないかは個人の良識に委ねられるはずだ。   こんなことを言ったら、きっと神話魔法の寮生に睨まれるだろうと思ったから、司は何も言わなかったが。   ヤクートが咳払いをした。 「ディスエルのことは一旦、置いておこう。あいつは俺たちをりんごまみれにした張本人だ」 「りんごまみれなのは、ヤクートだけじゃない」   ユリィがやれやれと肩をすくめた。 「素晴らしいコントロールだよな、あいつ。もしかすると、球技をやらせても上手いかも」 「確かに、しかも、りんごがあんなに砕けるなんて、かなりの豪速球だよね?」 「女とは思えない。しかも、空腹なんだぜ?」 「ヤクートが石頭なだけよ、きっと」   ユリィは半笑いでからかった。   ヤクートはあまり言い返せないでいるようだった。   司はふと、ペンダントを見下ろした。 「まずい!  時間だ!  あと五分!」   聞いた瞬間、ヤクートもユリィも全速力で走り出していた。
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