序章 クロノス・カタストロフィ

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チガクの教室は、本で溢れかえっていた。ハードカバーのかなり大きな本ばかりで、ホークの書庫を思わせる。ただ、本は四角柱の部屋に所狭しと並べられていて、もっと几帳面な感じがした。 すでに、講師は教壇についていて、すっと全員を見渡していた。 講師はラビニアだった。 「この授業では、魔道師が全知に至るまでの過程を追体験し、最終的にはみなさんが全知を習得するに足るだけの力を得るための方法を学びます。  チガクを極めるには、大量の知識と、処理能力が必要ですから、もしも、何年も続けたいと思うならば、大変な覚悟を持って臨む必要があるかと思います」 司はとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。 机を見下ろすと、地学のテキストが三冊。 ヤクートや、ユリィは知学のテキストを机に広げている。 司はとくとくと心臓が鳴るのを感じながら、ラビニアの顔を振り仰いだ。ラビニアは司のテキストを奇妙なものを眺めるように見下ろしていた。 司は、ちょっとだけ、笑って見せたが、ラビニアはあまり面白くはなさそうだった。 ラビニアがくいっと右手をあげると、どこからともなく本が飛んできて、司の前にひらりと着地した。 「休日にでも、テキストを買いに行くこと」 ラビニアはつっけんどんに言って、踵を返してしまった。 出会った頃のラビニアと何か違うような気がした。 「怖かった」 司は、こそっとヤクートに向かって呟いた。 「地学ってなに?」 ヤクートは、きょとんと呟き返した。 「私語は慎むように」 ラビニアが振り返り、がつんと言ったので、二人はすぐに姿勢を正した。 ユリィは笑いたいのをこらえているのか、小さく身体を震わせていた。 コンクエスタの愉悦はその上を行ったらしく、反対側の席でくっくと笑っていた。 「ユリィが元気になってよかった」 司は恥ずかしくて顔が赤らんでいるのは分かっていたが、強がることにした。ユリィは涙を拭きながら、首を振った。 「私も、派閥にいた時、おんなじような間違いをしたの」 ユリィは親しそうに司に笑いかけると、またくすくす笑った。 「平井君でも、間違うんだね」 「そこ、私語!」 何かを黒板に書き記そうとしていたラビニアは鋭く振り返って、厳格に怒鳴った。 ユリィも司も、もっとぴんと背筋を伸ばした。 ラビニアは満足気にうなずき、教室中を見渡した。 「魔道士は一人残らず、全知にたどりつける可能性があります。たとえ、今の時点でどんなに無知であろうとも、知識を得続ければ、全知に少しずつ近づいていきます」 ラビニアは流れるように説明をし、黒板に顔を向けた。 「全知には、大きく分けて三種類あります。集合的全知、検索的全知、半全知、集合的全知とは、この小さな脳の中に、宇宙を包括するような膨大な知識を全てあますことなく詰め込んだものを言います」 ラビニアは自分の頭をとんとんと叩き、生徒一人一人をじっくり見つめた。 「悪魔や神と契約することで、集合的全知は完成しますが、その前に、あくなきまでの知識への探究心がなければ、完成はいたしません」 ラビニアは、黒板に集合的全知、と書いた。 「次に、検索的全知ですが、こちらは知識がつまった外付けの記憶領域に頭脳を直結させ、その都度に必要な情報を集め、知識を得るというものです」 ラビニアは検索的全知、と黒板に書いた。 「この二つの違いは、前者は常に知識を持ち続けているので、どんな不測の事態が起こっても対応する機敏さがあります。  とはいえ、人間の頭脳は非常に小さく、世界を包括するような知識はあまりにも大きい。脳にかなりの負担がかかります」 ラビニアは集合的全知の特徴をさらりと書き、次に検索的全知の説明に移る。 「検索的全知は、脳にかかる負担が少ない代わりに、常に発動する全知ではないのですから、機敏な対応力では前者に負けます。  さらに、常駐的に知識を持たないということは、本質的には全てを知る存在とは違うのです。  ただ、不必要な情報を得る必要がないという利点もあります。  集合的全知は、本当にどうでもいいことまで知ってしまうものですから」 ラビニアは検索的全知の特徴を書いた。 「半全知は、上記の全知がある一定の時期や、場所だけで発動することができるもの。または、全知の範囲が狭いものを指します。  この学校の数百年の歴史の中で、在学中に、全知へとたどり着いたものは、指折り数えるくらいのものです。基本的に、数十年の歳月がかかるものだと思ってください」 司はあまりにも途方も無い話に頭がくらくらするのに気づいた。 「ですが、そうはならずとも、知識を広げる方法、知識の宝庫と頭をつなげる方法は皆さん、おのずと分かってくるでしょう。まずは、そこを目指すように」 ラビニアは言い終えると、本格的な講義に入った。 かなり難しい話だったが、なんとかついていけているようには感じた。 量子力学や、物理の用語が出てきたので、食らいつくことができた。 ヤクートに関しては授業が終わる頃にはいびきをかいていた。 ラビニアは杖でヤクートの頭を何度か叩いたが、ヤクートはうんうん唸るだけだった。 ユリィは青い顔をしていたが、ノートを取る手は止まらず、なんとか情報を飲み込んだような顔をしていた。 ヤクートを揺り動かし、起こした頃には、生徒の大半が出て行っていた。 司とユリィとヤクートは机に腰掛けながら、ぼうっと天井を見つめた。 「量子力学ってなに?」 「素粒子の謎を解き明かすための学問さ」 「素粒子って?」 「物質を構成している小さな粒だよ」 「司はよく知ってるなあ」 ヤクートはちんぷんかんぷんとばかりに頭を抱えた。 「でも、本当にすごいよね。私も量子力学なんて分からなかった。  粒子とか、物質って、実数世界の絵空事だと思っていたから」 ユリィは頬杖を突きながら、どこか遠くの世界に思いを馳せているような様子だった。 「実際、量子力学のおかげで、実数世界は発展しているから、絵空事なんかじゃないんだと思う。  実際に力を持つ学問である以上、魔法にも無関係とはならないと思うよ」 司が説明すると、ユリィはそれ見たことかとヤクートを見つめた。 ヤクートは口を尖らせてそっぽを向く。 「別に、俺は全知になんかなりたくないし、頭が良くなる必要もない」 思いっきりの強がりだったが、全くの嘘でもないらしく、ヤクートは言葉の終わりに連れて、力強く言葉を発した。 「ヤクートはもう少し勉強したら、魔法を使えるようになるんじゃない?」 「それを言われると痛いけどな。  とはいえ、俺は別に強くなれれば魔法が使えなくても構わない。  実数世界には、ミサイルとかいう武器があるんだろ?」 ヤクートはわくわくと司へ視線を向けた。 「まあね、でも、人一人が生身で扱えるようなものじゃないよ」 「だとしても、他にも武器はあるだろうし、使い方を覚えれば、俺の魔法と組み合わせて、相手を倒せるかも」 司はヤクートが言い募る光景を想像して、少しぞっとした。  あまりにもぴったりだ。  たしかに、傭兵として世界を駆けずり回るのは、ヤクートに似合いそうだが。 「バッカみたい! そんなに殺し合いが好きなら、軍隊にでも入ればいいんだわ」 「それも悪くないけど、虚数世界に軍隊ってないだろ? 実数世界の軍隊だと、魔法が使えるのは少し具合が悪いし」 ユリィはふんと、そっぽを向いた。 ヤクートは反省の色を顔に浮かべて、「悪かったよ」と呟いた。 ユリィは、本当に戦うとか、殺すとか、そういうことが嫌いらしい。  この学校では、主に戦うことを教えているようだが、軍隊とはかなり違う。  軍隊はもっと苛烈で過酷だろう。  そんなものに飛び込みたいというヤクートの心を、ユリィが理解できるはずがない。 「でもな、戦わないと守れないもんだってあるんだぜ」 ヤクートの瞳に、影が差した。 ヤクートはヤクートで昔のことを思い出しているのかもしれない。 ユリィはちょっとだけ視線をあげて、ヤクートに食ってかかるか迷う様子を見せた。 司はあわてて割って入ることにした。 「ねえ、二人とも、せっかくだからもう一回、学校を見てみようよ!」 二人はゆっくりとお互いに視線を外し、司へと目を移した。 「それは困るね」 背後からするりと絡みつくような声がした。 振り返ると、ロウ先生が扉の前に立っていた。小柄な身体の胸の前で腕を組み、人を食ったような笑みを浮かべている。 「これから、戦闘座学講習だよ、平井君」 司はすっかり忘れていたので、心の底からぎょっとして、頭を下げた。 「す、すいません!」 「ああ、ははは、いいんだよ! 別に、私もあまりやる気のあるわけじゃないんだよ。あと一年は、実家でゆっくりしたかったんだ。でも、そうもいかないからね」 ロウは言いつつ、ユリィとヤクートの方に視線を移した。 薄い眼がさらに薄くなる。 「ラビニア先生をのした三人組か。君たちも来なさい。きっと楽しい」 司を含め、三人とも緊張に張り詰めていた。ロウは緊張に身体を硬ばらせるユリィを特に執拗に見つめ、するりとその場から去った。 「どうする?」 司が振り向くと、ユリィは案外と乗り気そうにうなずいた。 「戦わないで勝つ方法が見つかるなら!」 ユリィには、予想外の幸運に感じられたらしかった。 司はヤクートにも視線を向けたが、やっぱり乗り気な顔をしていた。 机と机の合間を縫うように歩き出すと、二人も一緒に歩き出した。 真鍮色の扉を開いて、廊下に出ると、窓から金色の光が降り注いできた。  黄金色の太陽が、さんさんと光を降らせている。 蜜柑色に染まった空を見ながら、司は少し眠くなってきたのに気づいた。 ヤクートは遠慮なくあくびを連発し、ユリィはひかえめにあくびをしている。 司も、ちょっとだけあくびをして、春の暖かな空気で肺の中を満たした。 太陽の光は少しだけ、涼やかだった。 司はポケットから時間割表を取り出して、教室を確認した。 一階の一番端っこにある空き教室、と書いてあった。 ちょっと前を行くロウも、同じ教室に向かっているような感じだった。 「なんか、ちょっと怖かったな。ロウ先生」 「光の加減のせいじゃないかな」 ユリィは何にも気にしないような態度を取ったが、どうやら同じことを思っているらしい。 「筋肉のつきかたとかさ、やっぱり、さすがは戦術指南だよな」 「魔法が使えないのに、この学校で授業をするんだから、かなりのものだよきっと。  怖いと感じるのは、戦場に生きた人だからじゃないかな。  ほら、軍人って独特の空気を纏う人が多いでしょ?」 司はなんとなく感想を口にしたが、ヤクートもユリィも腑に落ちたらしい。 「なるほどな、それなら納得」 「そういえば、私の叔父さんにもあんな感じの雰囲気があったの。叔父さんは、よく戦争に行くらしいの。なんの戦争かは言ってくれないけれど」 ユリィはちょっと嫌そうに説明してくれた。 ユリィの戦い嫌いは、もしかすると、その叔父さんのせいなのかもしれないと、司は勝手に想像を巡らせた。 司が黙っていると、ユリィは急に破顔した。 ステップを踏むように司の脇に歩み寄ると、軽やかな歩みで隣を歩き始めた。 司は少し戸惑いを覚えたが、ヤクートもユリィも何も言わないので、そのまま歩くことにした。 三人はやがて、階段に差し掛かり、降り始めた。ヤクートは退屈そうに、ユリィは楽しそうにだ。 ヤクートはなんの前触れもなく階段を飛び降り、伸びをした。 「司のお陰で、特別授業が受けられるんだ、感謝しないとな」 振り返り笑うヤクートに司は笑い返した。 「僕のお陰じゃないよ。あとで、ロウ先生にお礼を言わないとね」 司も階段を蹴って飛び降りた。 ユリィは焦って早足に階段を通り抜ける。段を降り損ね、倒れそうになるのを司は右手で支えた。 ユリィは顔を少しだけ赤らめながら、「ありがとう」と言った。 「二人とも、私の歩幅も考えてよ!」 「ユリィは足が短いからな!」 ヤクートがにやにやしだしたので、ユリィはふんとそっぽを向いた。 こんなやり取りをしているすきに、空き教室の前に来た。 カビ臭い木製の扉で、ガラス張りの窓には蜘蛛の巣が張っていた。 司が扉をゆっくりと開けると、三人の学生と、ロウ先生が待っていた。 「あ、ユリィじゃないかい! なんだい、あんたこの授業受けることになってたの? なんで言わないんだか」 真っ先にこちらを見て走り寄ってきたのは、司がユリィを寮に送った時に引き取ってくれた先輩だった。 司は控え目に頭を下げ、ユリィが顔を真っ赤にしてうつむくのを何だか可哀想に思い始めた。 「ヤクートも久しぶり。  で、そっちの子にも言ったけど、あたしはエリナ。  星座魔法寮の学生代表だよ。聞きたいことがあったらなんでも言っとくれ」 エリナは活発に微笑んだ後、ユリィの手を取って席にまでひっぱりだした。 「ほら、ユリィ、ぼやぼやすんじゃないよ。お前はぼうっとしてるから、心配だ。ほら、ここに座って」 カビ臭い椅子の一つを取ってきて、カビ臭い机の前に座らせるのを、司は心配しながら見ていた。 「エリナは過保護でさ。  昔からユリィのお目付役。  活発でハキハキした女の子にするって決めてたのに、そうはならなかったって、最近は後悔しているらしいよ。  あれを見ると、どうやら、まだ諦めてないみたいだけどな」 「ユリィは、十分に主体的な子だと思うけど」 声を低くして反論すると、ヤクートは肩をすくめた。 「まあ、それは俺とお前とディスエルにだけだよ。  普段はもっと大人しいし、主体的じゃない。特に家ではそうみたいだ」 元々、そこまで主体的な子には見えなかったが、度を越した人見知りだったらしい。  昨日出会って当初は、司にも敬語を使っていたし、他人行儀なのは確かに感じていた。 司は思い切ってユリィの隣に座ることにした。なんとなくそうしたほうがいいような気がした。 ユリィは司とエリナに囲まれて座ることになった。 ユリィは弱々しく司に感謝の笑みを浮かべた。 エリナは少し面食らったらしく、司をまじまじと見た。 「ボーイフレンドってわけじゃないよね?」 司をジロジロと見た後、エリナは眉根をよせた。 司の格好は少なくともこざっぱりしたものとは言い難かった。 品定めするような視線には気づいたが、これ以上、よく見せる方法は分からないし、少なくとも及第点以下なのは知っているが、どうしようもない。 「ユリィは、これでも有力な貴族の家系の子なんだよ」 「はい、そうみたいですね」 「だったら、君が取る道は、分かるね?」 エリナはじっと司を見つめている。 「友達ですから」 司はペンダントを見下ろした。もう一人の自分は何も介入するつもりがないのか、顔も見せない。 「友達なら、友達らしく、一歩引いとくれ、この子にゃ、ちゃんとした相手を見つけなくちゃならないんだ」 司は席をずれなかった。 折悪しく、ヤクートが動かなかったために、ずれることが出来ない、という体になった。 ヤクートが耳打ちをする。 「最近、男性関係に滅法うるさいんだよ。ユリィが婚活失敗してからだな」 ユリィの従兄弟が結婚した話は聞いていたし、すでに結婚している学生がいるのも知っている。  けれど、結婚相手がどうしたこうしたと言われて、交友関係に介入されるのはユリィに悪影響しか産まない気がした。 司が不満を持っているのに気づいたのか、エリナはうっすらと敵意の光を視線に込めた。 司は顔を背けた。 第一印象では、さばさばした感じで好きだったのだが、今ので印象は百八十度も裏返った。 司は気分を誤魔化すためにほかの二人の生徒に視線を巡らせた。 二人は無関心を決め込んでいるような様子だった。 せわしなく書物のページをめくり、時々、眉根を寄せながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。  髪は寝癖ばかりで、ぴょんぴょんと跳ねているし、片方は女性徒なのに、すっぴんだ。 司はすぐに受験生なのだと想像した。 その通りらしく、持っている書物は、なにか難しい学問のテキストだ。 ロウ先生がにこりと笑った。 「はい、みなさん、一度こちらに注目してください」 二人の受験生がテキストを放り出し、爛々と光る瞳でロウ先生を見つめた。 目には意欲というか、執念が滾っていた。 「では、上級生のお二人。質問です。孫子が戦争をする前に何よりもしなければならないと言ったことはなんでしょうか?」 二人とも検討もつかないのか、目を見合わせた。 表情に明瞭な焦りが見られた。 「勝敗は兵家の常と、孫子は言っています。  目の前の結果に一喜一憂しないこと。  では、今度は下級生に聞いてみましょうか」 ロウは司を見つめた。 薄い瞳が怜悧にこちらを見つめているような気がした。 「戦争は最後の手段で、最後の最後まで、戦争をしないで済む手段を模索する」 「はい、すばらしい。そういうことですよ。戦いはしないに越したことはない」 「先生、しかし、私たちは戦う為の術を知りたいわけです」 上級生は、煩わしそうに眉根をよせた。 「もちろんですとも。  絶対に戦わずに済むならそれが一番ですが、世界の歴史を見るにつけて、どうしてもそんなことは絵空事だと思わずにはいられません。  ですから、我々がもっとも尊ぶものを次にあげてみましょうか。  では、中級生のあなた」 ロウは、エリナに目をくれた。 エリナは考えた末に、口を開ける。 「どうしたら、相手に最大の損害を与えられるか?」 「惜しい、半分正解。  ですから、我々が知らなければならないのは、こちらの損害を最小限に、相手に最大の被害を与える方法です」 ユリィは不安そうにロウを見つめた。 「ちなみに、戦わずして勝つ、方法も皆さんにお伝えしていく予定です」 ロウの和らいだ微笑みに、ユリィは安堵をしたようだった。 司は、ロウの様子を実際に見つめて、かなり実際的な人物で合理的なのだと感じ始めていた。 司が考えていると、ロウは黒板へ振り返った。 黒板に向かって、本当に綺麗な字で何事かを書き始めた。孫子の兵法の最初の一文だった。 それからも、兵法を一つずつ並べていったのだが、急にロウはそれを消した。 「こんなものは必要ありません」 ロウは振り返り、にこりと笑った。 板書の手が一斉に急停止した。 「もっと、実際の戦法に触れてみましょうか。ちょうどいいサンプルが、ここにあります」 ロウは司に笑いかけた。 なんのことだか分からなかったので、司は自分の後ろの人に聞いているのだろうと思ったが、もちろん後ろに人はいない。 「ラビニア先生を倒した時の背景を簡単に」 司はやっと意味を飲み込んだが、すぐには答えが返せなかった。  あれは、行き当たりばったりのことで、上手く行ったのは奇跡のようなものだった。 とりあえず、例の作戦を立案したまでのことをつっかえつっかえ話してみると、教室が驚きに染まるのが分かった。 言い終わると、ロウはぱちぱちと手を打った。 「兵は詭道なりと言って、相手の不意を突くことで、最大の戦果があげられると孫子は述べています。  平井君は、この前提に立って、作戦を立案したのですね?」 「まあ、不意は突けるかもしれないと思ったくらいで」 司は頭をぽりぽりと掻く。 エリナは興味深そうに司を見つめていた。 「とにかく、相手の予想だにしない切り口から、攻撃をしかけること、今日はこれをテーマにして、簡単に戦略ゲームをしましょう!」 ロウは、ボードゲームのようなものを机の裏から引っ張り出した。 全員、目を丸くして黙り込んでしまった。 「これは、ラビニア先生が空間魔法をかけてくれた完璧な戦略シミュレーションです。  一人一人の駒は統率者であるあなたの言葉を遵守します。  川に飛び込めといえば、飛び込みますし、自害しろといえば、自害もする」 ユリィが身体を縮めてしまったのを見て、ロウは微笑んだ。 「もちろん、そんな意味のないことをする必要はありません。  駒が出来るだけ減らないように、相手の攻撃を撹乱し、不意を突き、倒してごらんなさい。さあ、二人一組になって!」 ロウの一声で、受験生二人がタックを組み、ユリィとヤクートが向かい合い、なぜか、司とエリナが戦うことになった。 エリナは真っ先に司へと勝負を挑んだ。 ボードゲームを前に、視線を見交わすと、 と人の悪い笑みを浮かべる。 「あんたに興味があるんだよ。あたしゃ」 司は、あいまいに笑いかえすしかなかった。  エリナはやたら適当に駒を並べ、一つ一つを胡散臭そうに吟味していた。  ロウが、ざっくりと駒の説明をしたので、エリナは聞き耳を立てていた。 司はエリナとユリィが姉妹であることが皆目、信じられなかった。 司は駒を一つ一つ見て、考えをまとめながら並べ始めた。 考えてみると、友達や同年代のクラスメイトとボードゲームをするのに憧れたことがある。  エリナとの対戦が終われば、ユリィやヤクートとも、対戦ができるだろう。 胸が弾むし、手も踊るように駒を並べていた。 「さて、いいですか?」 ロウがゆっくりと見回した。 司は急いで駒を並べ終えた。 「駒はみなさんの思考に自動的に反応して、動いてくれるでしょう。だから、難しいことを考えずにシンプルに」 ロウの言葉が終わったか終わらないかのうちに、全員が駒を進め始めた。  駒は本当に、自分の手足のように動いた。 司は魔法のすごさにすっかり感心して、エリナが突撃させた槍兵に気づかず、三騎の雑兵を串刺しにされた。 司はあわててゲームに思考を戻し、槍兵を囲んで叩き潰した。 チェスのように考えれば、槍兵は三ポイント、雑兵は一ポイント、と考えることができる。 チェスとは違うと思ったが、司はエリナにボードゲームの経験が無いことを見抜いた。 エリナの攻撃は直線的だった。雑兵を追い回すために最上位の駒を追い回すような感じで、討伐は容易だった。 エリナにはどうやらボードゲームの才能か、もしくは戦略の才能が少しもないらしいことを、推測せざるを得なかった。 司は、エリナが攻め立てている間に、回り込ませた兵で将軍駒を突き刺した。 法螺貝が鳴った。 エリナはきょとんとしていた。 その瞳に、卑怯の二文字が浮かび上がっているような気がしたが、司は勘違いだと思うことにした。 ユリィを見てみると、惨憺たる有様だった。  駒が傷つくのを恐れて、全員に逃げを打たせいた。  追い回された駒が串刺しにされるたびに、短い悲鳴をあげていた。 ヤクートはやりにくそうに駒を操っていた。 「こんなゲームなんかであんたを認めたりはしないよ」 エリナの言葉に気づかないふりをして、ユリィとヤクートの対戦を観察していた。  エリナはぷんぷんと怒って、椅子に座り込んでしまった。 司はユリィの将軍が、ぺこぺこと土下座をしているのを気の毒に思いながら、唇をちょっとだけ緩めることにした。 ユリィは涙目になりながら、今にも噛み付きそうな犬を遠ざけるように離れていってしまった。 司はヤクートと目を合わせて、肩をすくめあった。 「はい、今日はこれくらいにしましょう」 ロウは見かねて、手をぱちぱちと叩き、授業の終了を告げた。 生徒達はぞろぞろと教師を後にした。 司はユリィの隣を歩こうとしたが、エリナが先立ち、ユリィの手を取ってその場を後にしてしまった。 「ユリィの姉さんは相変わらずだな」 「いつも、ああなの?」 「過保護を絵に描いたような感じ」 ヤクートはうなずきながら持論を述べた。その通りだと司も思った。 「じゃあ、中央階段まで一緒に行こうか」 「つまんね、お前も俺と同じ寮生ならな」 「僕もそう思うけど、なんとなく、時間魔法が使えるのが幸せな気がするから、ぼくはこれでいいようなきがするんだ」 「じゃあ、俺が時間魔法の寮生になりたかった! 俺、森の空間魔法しか使えないし」 「不思議だよね。呪いでもかかってるのかな」 「呪いなんて、この世界にないんだぜ。おとぎ話さ」 「人を呪わば穴二つって言うしね、そんなものないほうが僕も心安らかだけど」 「ちげえねえな。体に二つも穴が開くなんて、嫌だよ」 そういう意味じゃないけどね、と、司は呟きながら、司は教室の出口まで歩いた。 しばらく、無言で歩いた二人は、中央廊下を二つに分かれて、寮に帰った。 司は今日の一日のことが、現実の出来事に思えなかった。幸せすぎたし、思いもよらなかった。 ベッドに入って、何度も寝返りを打った。 明日の授業に備えて眠らないと、と思うのだが、なかなか寝付けず、時々、冴えた瞳が天井を睨みつけていることがあった。 司は、その度にむりやり目を閉じて、また開いてを繰り返した。 ようやく眠り始めたのは、随分と夜が深まった時だった。 久し振りに夢を見た、ぼやけた靄が漂うだけだった。
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