序章 クロノス・カタストロフィ

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ウリエルの宿舎は、巨大な洋館だ。 闇夜に浮かんでいるはずなのに、光の粒子を少しも放射していないのが、二人には不気味だった。  クリーム色の外壁に、悪魔の石像、ガーゴイルが無造作に設置されている。  ガーゴイルは、まるで司たちを睨みつけているかのように思えた。 司とディスエルは視線を見交わし、鉄柵の合間から、館全体を見渡した。  噴水や、天使の像が立ち並ぶ庭に、一匹、大きな怪物が横たわっていた。 司は、無謀に思える気持ちを抑え込み、怪物を観察した。 ライオンの身体に、ファラオの顔、翼、全て金色に光っている。 「スフィンクス、だよね、あれ?」 「間違いない。厄介な番犬を飼っているな、ウリエルのやつ」 「どうすればいいと思う?」 「スフィンクスは謎解きさえすれば、苦もなく通してくれるはずだ。  私と君には、差し当たって脅威にはならないと思うが。  それより、問題はガーゴイルだな。あの数が襲ってきたら、対応する術はないぞ」 ディスエルは震える肩を必死で庇いながら、鉄柵を握りしめた。 「失敗すれば、拷問の末、はらわたを引きずり出されるかもしれないし、指の一本一本を潰されるかもしれない。  どんなことをされるか、想像するだに恐ろしいぞ」 「分かってる、大丈夫だよ。君を守る。どんなことがあっても、君だけは守る」 司はディスエルの肩に手を置き、鉄柵に足をかけた。素早く鉄柵の横棒に足を押し付けて、するすると登る。  ディスエルはじっと司の様子を見上げていた。 「どうしたの? ディスエル、やっぱり怖い?」 「……れない」 「え? なんだって?」 司が聞き返すと、ディスエルは顔を真っ赤にして俯いた。 「登れないと言っているんだ!」 ディスエルは羞恥のあまりか、目元に涙を浮かべていた。 司は柵を滑り降り、ディスエルと向き合った。 「なんで、登れないの? 怖いから?」 「君がいれば怖くなんかない! お、女の子が、君のように鉄柵をするする登れるわけがないだろう……」 司は考えてみればその通りだと思った。 そこで、地面に膝を突いて、ディスエルに背中を向けた。 「な、なんのつもりだ?」 「おんぶしてあげる。大丈夫、登れるから」 「私はスリムだが、ユリィと違って魅惑的な体型だから、三十キロくらいはある。本当に登れるのか?」 「軽いよ。三十キロくらい。朝飯前さ」 「百点満点の答えだが、なんだか悔しいな」 ディスエルは、司の背中におぶさり、ぎゅっと首に手を巻きつけた。  司は、ゆっくりと立ち上がった。なんとか登れそうだった。  内心、力が足りないのではと心配していたが、杞憂だったようだ。 それより、ディスエルの鼓動がとくとくと耳に響いてくるのが、心配だった。やはり、館に忍び込むのは怖いのだろうか。 ディスエルは一層、司に身体を密着させた。柔らかな膨らみが、背中に押し付けらる。司は心の底からびっくりしたが、すぐに気を取り直す。 「じゃあ、行くよ。しっかりつかまっててね」 「ええい! 余計な気遣いはいらない! 一思いにやりたまえ!」 ディスエルは必死に抑制した声で突っぱねた。言い終わると、深く深呼吸をして、司の首にもっと強く抱きついた。 司はディスエルをぶら下げながら、鉄柵を登りだした。  ディスエルの息が首にかかって、こそばゆかった。何度も力が抜けそうになるのを鋼の精神力で抑え込み、司はてっぺんまで登った。 ディスエルを鉄柵の上に残し、自分は飛び降りると、両手を広げた。 「飛び降りて! 大丈夫!」 司が呼びかけると、ディスエルは目をつぶって飛び降りてきた。 「にゃっ!」 「ぎにゃっ!」 二人とも変な声を上げた。  額と額をぶつけ、折り重なって倒れる。司はディスエルの胸のあたりが自分を強打したのに気づいたが、さして痛くないのに驚いた。 司はディスエルの腰のあたりを持ち上げて、じっと身体を眺め回した。 「平井司、セクハラか?」 ディスエルは無理やり笑おうとしている。失敗を取り繕おうとしているらしい。 「怪我はないか見ただけだよ」 「ン、ありがとう」 ディスエルはちょっとだけ顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。 「ディスエルが素直だと助かるな」 「普段は天邪鬼で悪かったな」 司がからかうと、ディスエルは顔を見せないようにスフィンクスの方へと歩いていった。 「行こう。その、……司」 司は瞬きした。 ディスエルは怪訝そうに司の顔を見た。 「名前、呼んでくれたね?」 「呼んだが、それがどうした?」 「いや、嬉しくってさ」 腹の底がこそばゆくなって、胸のあたりまでこそばゆさが迫り上がってきた。  司は思わず笑いだしそうになるのを堪えなければならなかった。 「ヤクートを除くと、同年代の友達が名前で呼んでくれたのは初めてだった」 「孤独体質だったというわけか、君の周りには、その……いい人がいなかったんだな」 ディスエルは多分、勘違いをしている。  いじめられっ子だったとか、人に馴染めなかったとか、そういうことを考えているのだろう。 本質的には違う。 司は性格とは別のところで、人と関われなかった。司が十二年間直面してきた問題を孤独体質だと言うのなら、きっと間違いではない。 けれど、司は人としての弱さに決して負けないで生きてきた。 そのおかげで、十二年間が過ぎた今、最高の友達に出会えた。 司は考えながらスフィンクスに向かい合った。 スフィンクスは綺麗な女の声で朗々と喋りだした。 「通りたくば、問いに答えなさい。答えられれば、通しましょう」 歌うように紡ぎ出される声に、司は精神を集中させた。 「時間と空間は、どちらが先? これは答えのない問いですが、ヒントに基づいて一つの答えを編み出しなさい。  時間は光を持たない。空間は光を持つと仮定する。ビックバンはその昔あったと仮定する。一ではなくゼロが始まり」 司がじっと黙っていると、スフィンクスは微笑んだ。 「以上ですよ」 司は考えをまとめた。 「時間が先。  なぜなら、光は闇から生まれた。ビックバンはすなわち、闇から光を生む過程だから、光はすなわち一を暗示する。  一を始まりにすれば、空間が始まりだと言えるけど。ゼロが始まりだと考えれば、時間が始まりだと言える」 「通りなさい。お気をつけて」 スフィンクスは横に退いて、右脚を上げた。 司とディスエルはスフィンクスを横切り、館の方へと向かった。 石造りの道を行き、石階段を登ろうとする時だった。巨大な影が空中から飛来した。司もディスエルも恐る恐る空中を見上げた。 「予想の通りだが……」 「思った以上に」 「「でかい」」 ガーゴイルは二人の背丈の三倍はあった……。
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