序章 クロノス・カタストロフィ

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「一、二、三、四、五体か……」 ディスエルは慎重に見積もった。 「逃げる? 戦う?」 司が落ち着き払って尋ねると、ディスエルは肩をすくめた。 「ガーゴイルというのは、呪文がかかった石像だ。つまり、もとを正せばただの石の塊なんだよ。戦えば厳しいが、元に戻してしまえば案外と楽に無力化できる」 「で、どうするって?」 「見たまえ、あそこに魔法の刻印がある」 ディスエルはガーゴイルの一匹が振り下ろした腕をひょいと交わして、指を差した。指の先には、六芒星の刻印が描かれた石板があった。 司は、ペンダントに手を置いた。 ペンダントがモーターのように回転し、白い光を吐き出した。唸りを上げたペンダントからは、司の身体ほどもある歯車が容易に現れ、司の頭上に渦を巻きながら現れた。 歯車は五つ。両手を前に掲げ、ガーゴイルへと一斉に射出した。 歯車は風を切り、空を切り裂き、唸り声をあげて、二つの刻印を破壊した。刻印を失ったガーゴイルは、頭を抑え、苦悶の声を上げた。やや茶褐色だった身体が、白色になっていき、完全な石だと判別できるまでに変色した。 残りのガーゴイルは、歯車を避けたり叩き落としたりした。 司は、慎重にガーゴイルと距離を取り、ディスエルを庇った。 ガーゴイルは逆上したのか歯車を取り上げ、司に向かって投げつけた。 歯車は司の目前でぴたりと止まり、今度はガーゴイルへと一直線に飛んだ。ガーゴイルの身体に叩きつけられた歯車は、予想以上の硬さを持つ体表に当たって砕けた。 「刻印を狙え!」 ディスエルが怒鳴った。 「分かってる!」 司は、ガーゴイルの剛腕を避け、ディスエルの手を引っ張りながら怒鳴り返した。 二人が転がり込んだ先に、もう一体のガーゴイルが拳を振り下ろした。巨岩のような拳は、二人が一瞬だけ止まった場所に叩きつけられ、地面を軽く粉砕した。地鳴りが響いたかと思うと、司とディスエルはバラバラになり、ディスエルは必死で拳をかいくぐっていた。 ディスエルは、ガーゴイルの一体の場所にたどり着くと、地面が砕かれたことによってできた石で思いっきり殴りつけた。 ガーゴイルは動かなくなり、あと二体になった。 ディスエルの頭上に拳が降り注ぐ。 司は逆上しそうになりながら、歯車を投げ飛ばした。魔法の加速を得た歯車は、残り二つの刻印を砕き、司の元に戻ってくる。 ガーゴイルは動かなくなり、ディスエルは疲れ切ったように座り込んだ。 「これで、奥に行けるな?」 ディスエルが微笑んだ。 「あんまり、無茶しないでよ」 司は産まれてから一度もこんなに心臓が脈打ったことはないと思った。 ディスエルに向かって歩き、思った以上に華奢な身体を抱きすくめた。ディスエルは驚いたように身体を強張らせたが、司と目が合うと、ニヤッと笑った。 「司、教会の女の子に手を出すと、神に祟られるぞ?」 「そういうつもりじゃないし、神様なんて、君も僕も信じてないだろ?」 「ン、そうだな」ディスエルは照れ臭そうにうなずいた。 「司、行こう。勝利のハグは早すぎる」 ディスエルは司の手を解いて、乱れた髪を右手でまとめ直した。女の子は、こんな時でも身だしなみに気をつかうのだな、と司は場違いなことを考えた。 ディスエルは服の乱れまでも直し終えると、司の後ろにぴったりと着いた。 二人は身を寄せ合うようにしながら、入り口に向かった。石造りの階段に、何かトラップはないかと不安になりながらも二人は進んだ。 扉は、朱塗りの木版で造られていた。ドアノブには、天使の顔が施され、司に向かって微笑んでいる。周囲には、司の見たことがない文字が装飾されている。 司がドアノブに手をかけようとすると、ディスエルが制した。 「待て、司。どうやらこれにも刻印が施されている。触った瞬間、身体が火だるまになるぞ」 司は血の気が引いて、手を引っ込めた。 「どうするの? 窓から侵入する?」 「ほかの場所にもガーゴイルがいた。また戦うのは御免被るな。大丈夫だ、私が刻印を解除する」 ディスエルは優しく司の身体を押しのけ、胸元から眼鏡を引っ張り出した。お次に杖のようなものも取り出すと、まず眼鏡をかけた。 ディスエルはじっと刻印を見つめ、杖で文字の一つを突っついた。ディスエルはなんらかの規則性で、順番に文字を叩いていく。その度に、空中に炎が浮かび上がり、炎は刻印を描いて、掻き消えていった。 ディスエルはしばらくして、手を止めた。 「素数の分布を間違えたか? それとも、虚数軸の設定を誤ったか……」 ディスエルはぶつぶつと呟いていたが「ああ、そういうことか」と、呟いて、残りの刻印も叩いて消した。 ドアは独りでに、きいと音を立てて、司たちに向けて開いた。 司はディスエルの先に立って、館に入っていった。 館の中央には、二股に分かれる巨大な階段があった。左には、食堂らしきもの、右には部屋はない。階段を昇ると、恐らくいくつも部屋があり、書斎も階上にあるのだろう。 司は、トラップはないかと、床を観察した。 「無いようだ。いくらなんでも、家のなかにトラップを仕掛けては、奴自身も過ごしにくいだろう」 ディスエルは冷静に分析した。司も同意見だったが、気をつけるに越したことはない。 「ちょっと、暗いな」 司は部屋を観察するのに目を凝らしすぎて、視界がしょぼしょぼしてきた。ディスエルは杖を振り、どこからともなく、燭台を取り出した。 「召喚魔法だ。あんまり、感心している時間はないぞ」 ディスエルは司の手を引いて、階段の方へと歩き出した。 「ウリエルはいないんだろうか?」 司が声を落として問うと、ディスエルは首を振った。 「人がいるようには思えない。静かすぎる」 「でも、あの人には何をするか分からない怖さがある」 「あの女は、複雑なように見えて単純だ。複雑に見えるのは、子供のようにコロコロと興味が移り変わるからだ。多分、ここにいないということは、何か興味の対象があって、猫を殺すように興味の対象にちょっかいをかけているんだろう」 「それが本当であることを願うよ」 司はディスエルから燭台を取り上げ、先導を代わった。 ディスエルの手は、先程から小刻みに震えていたし、血の気が引いた様に体温が低かった。 「……あ、ありが」 「ディスエル、静かに」 ディスエルが何かを言いかけたようだったが、司はすぐに制した。 何か、物音が聞こえたような気がした。 司はじっと耳を済ませた。ディスエルは司の肩に寄りかかって、子猫のように震えていた。 「時計の音……」 司は、この三ヶ月、時計の音に敏感になっていた。ディスエルの右手を握りしめながら、時計の音を探った。 「妙だな。時計が一つしかないんだろうか?」 こんなに大きな館に、時計が一つしないのはおかしい。 「司、今は時計の数など気にしている場合ではない」 「分かってる。……そうか、ウリエルは一人暮らしだから、部屋を一つ使えば十分なんだ。だから、時計が一つでいい。音を辿れば、ウリエルが使っている部屋が分かるはずだ」 「論理的だ。問題は、時計がある部屋を避けて、スクロールを探すか?」 「時計がある部屋に行って、ウリエルに会う危険を冒すか? だね。虎穴に入らずんば虎子を得ずだよ。ディスエル、君は入り口で待ってて、少しでも危険だと思ったら逃げてくれていい」 ディスエルは突然に司の胸倉をつかみあげた。 司は面食らって、ディスエルの顔をまじまじと見た。 「いいか、今の言葉は、君が殺されることを容認している。約束と反しているんだ。君は死なないと言った。何かあったら逃げろという言葉と矛盾するのに気づかない君ではないだろう?」 「……分かったよ」 司は弱り切った心を抑えて、うなずいた。 「僕はただ、本当にもしものことがあったらって考えただけなんだ」 「それに心外だ。私は、もう逃げたりしない」 ディスエルは低く、強い意志のこもった声で司を揺さぶった。 「じゃあ、行くよ。手だけは離さないでね?」 「信じているぞ」 ディスエルは司の右手をさらに強く握りしめた。 司とディスエルはゆっくりと階段を昇り始めた。掃除が行き届いていないのか、少し埃っぽかった。段を昇るごとに埃が厚く積もっている。たとえ、ウリエルに見つからなくとも、誰かが、忍び込んだことは百パーセント知られてしまう。 司は希望も感じていた。 燭台でいくら照らしても、ウリエルのものらしき足跡は見つからない。 ウリエルは、少なくとも数日くらいは、ここを訪れていないのかもしれない。 ラプ子は、ここに必ずスクロールがあると言っていた。ラプ子の言葉を信じるならば、ここにウリエルはいない上に、スクロールも必ずある、ということになる。 こつ、こつ、こつ、と二人の足音が響く。 最上段まで昇り終えると、扉が見えた。 司は刻印がないか調べた後、ディスエルを振り返った。 ディスエルはメガネをかけながら、安全を確認していた。 「大丈夫だ。細工はされていない」 「よし、行こう」 ディスエルと揉めないうちに、司は急いでドアノブを回した。 ディスエルならば、一応、私が確かめると言いかねない。言った場合は、二分か三分くらい、揉めることになっただろう。 ドアを開くと、廊下があり、天使や悪魔が描かれた不気味な絵画がずらりと並んでいた。絵画の合間には扉らしきものがあり、ほとんどのドアノブは錆び切っていた。 目を凝らすと、ひとつだけ人が繰り返し使った形跡のあるドアがあった。 司は一番奥にあるドアに向かって、ゆっくりと歩いた。 手が触れるくらいの距離に近づくと、ディスエルがドアノブを確認した。 「大丈夫だ」 ディスエルは迷わず手を伸ばし、ドアを開いた。 「ディスエル、いいかい?」 司は部屋に入る前に、ディスエルの両肩に手を置いた。 「これから先、どんなことがあっても、先にドアノブに触れるのは僕だ。守ってくれるね?」 「私に指図をするつもり……リーダーは司だ。従うとも」 司は安心して、部屋に入っていった。 ディスエルもその後ろに続く。 部屋には、本と書類だけがあり、向かい側には、炎を纏った天使の絵があった。埃臭い感じはせず、むしろ、心地のいい芳香を嗅ぎ取れた。 天使の絵に、見られているような気がして、司は一瞬、身体を強張らせたが、それより気になるものがあった。 机の上にある、一冊の本……。 金色の装丁で、『完璧な歴史年表』と書かれいた。ノートパソコンより大きく、何倍も厚い『完璧な歴史年表』は、薄く光を放っている。 司は本に惹かれる自分に気づいた。 思わず、足を進め、手を伸ばそうとすると、ディスエルが遮った。 「私達は何をしに来たんだ? 知的好奇心など、横に置いておけ!」 「ごめん、気になっただけなんだ。やめておくよ」 「賢明な判断だ。スクロールを探せ」 司とディスエルはうなずき合い、一斉にスクロールを捜索し始めた。 雑然と置かれた本の間や、下、棚の中、引っ掻き回すように探していると、机の上にスクロールが見つかった。 二人は、燭台を近づけて、スクロールの外観を確認した。間違いなく、二人が探しているものだと確信して、笑みを交わし合う。 司はスクロールをポケットに仕舞い込み、部屋を後にしようとした。 直後、心臓が強く脈打った。 何か、波に揺さぶられるような感覚が襲ってきた。振り返り、波の発生源を確認すると、『完璧な歴史年表』の方向だと気づいた。 司はゆっくりと、大きな本に近づいた。 ディスエルは止めようとしたようだが、声を上げるのに留まった。あまりにも離れすぎていた。 司は本に手を置いた。 【おやあっ? 子ネズミが私の部屋に入り込んでしまったようですねえ!】 司はぎょっとして、本から手を離してしまった。 天使の絵が、司の顔を射すくめるように見つめていた。 司は燭台を床に投げ出して、足ですり潰すと、ディスエルに飛びついた。驚くほど細く、小刻みに震える右手をつかみあげて、ドアノブに走る。 ディスエルは過呼吸を起こしていた。 肖像画が発する、絡みつくような声色と、嘲るような言葉は、絶対に聞き間違いようがない。 ウリエルが、もうすぐここに来る。 司は必死でディスエルを引っ張りながら、出口へと向かった。ディスエルはされるがままになっていて、ディスエル自身の意思が少しも感じられなかった。 人形のようになってしまっている。 司は階段を飛び降りるように駆け降りると、出口へ向かって手を伸ばした。 司は身体に圧迫感が襲うのを感じて、立ち止まった。 ディスエルが突然、司を抱きすくめた。 「だめだ、あのドアノブに触れれば……」 司は振り返った。 「子ネズミは、一体全体、どこのどなたでしょうかねえ?」 言葉と足音が近づいてくる。 ディスエルは恐怖のあまり、嘔吐を繰り返そうとしていた。 「……ディスエル、大丈夫。ずっと目を瞑っていて? 寮の僕の部屋に入るまで、目を開けちゃダメだよ?」 ディスエルが母親にすがる子供のようにうなずいたのを確認した。司はディスエルの身体を抱え上げて、ドアへと走った。 「時間操作、相対速度、十倍!」 司が唱えると、ペンダントが急回転を始めた。喧騒がいきなり聞こえなくなり、ただ、無音の世界で司は走っていた。 空気は軽く、重力も消えたような感覚が沸き起こる。 地面を蹴ると、景色の方が後ろに通り過ぎて行くようだった。 司はドアノブをひねった。 同時に、炎が身体を包み込む。 司は唸り声をあげながらも、必死で炎と戦った。 ディスエルに炎の影響はないかと、司は見下ろした。 時間魔法の一つ、相対速度の倍化には、副次的な効果がある。術者の動きを加速するだけでなく、術者と世界を剥離させ、お互いに干渉できないようにすることもできる。 十倍に加速された司と、普通のスピードで行動する世界では、違う次元に存在しているのと同じ。 魔法を使う前から干渉していたディスエルなら、運ぶことはできる。 炎の影響は、ディスエルにも伝播しないのだろうか? ディスエルは震えてはいるが、炎に苦しんでいるようには見えない。どういう理屈かは分からないが、平気のようだった。 外に出ると、ガーゴイルがナメクジのようなスピードで襲ってきた。 司はガーゴイルの横をすり抜けて、スフィンクスの頭上を飛び越えると、鉄柵も軽々と飛び越えた。司の背後に太陽が破裂したような光がほとばしったが、司は背中に感じるだけだった。 司は地面にごろごろと転がりながらも、ディスエルの頭は保護し、はいつくばるように走り続けた。 時間魔法の寮に一刻も早く辿り着かなければならないと、司は走り続けた。 後ろに後ろに、地球が転がって行く。 司は時間の支配者ですらあったが、身体中がズタボロになっていた。炎が今も身体を焼いている。皮膚が焼けただれているのが分かる。 それでも、ディスエルやユリィ、ヤクートのために、今は逃げなければならない。 司は、喘ぎながら走り続けた。 その後の記憶は定かではない。 塔の前で、出会いたくない人物に出会った気がしたが、ディスエルに追い払われた。ディスエルはものすごい剣幕だった。出会いたくなかった人物は、心の底から驚いたのか、逃げ去ってしまった。 司は自分の右手を見た。 夢で見たミイラのような手。ディスエルの友達の手によく似ていた。 「ディスエル、約束を果たせなかった……」 司は死ぬ。 確実に、今この瞬間も生きているのが不思議なくらい。 身体中が、悲鳴をあげているのに、痛みすら感じない。 ディスエルは司の身体を抱き上げて、なにかを言っていた。 繰り返し、繰り返し、語りかけていた。 司は視界が真っ暗となり、何も聞こえず、何も見ず、何も理解しない土塊になった……。
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