誰そ彼

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 欄干に手をかけて、今にも山の向こう側へと沈みゆく夕陽を見やる彼女は、そのほっそりとした肩に背負いこんでしまった運命も相まってとても絵になっている。  だから僕はつい声をかけるのを躊躇する。  ここまで無我夢中で走ってきたというのに。 ……二人の間にはまだ十数メートルほどの距離がある。今彼女がこの橋の下を流れる一級河川へと飛び込む決心をつけてしまったら僕は絶対に助けられないだろう。でも、息を切らしていると不意にトウコさんは顔を左に向けて、橋の始点に立っている僕の存在に気がついた。  そうして、 「おーい。こっちにおいでよ」 なんて、どこか間延びした感じすらある声音で呼びかけるものだから、僕も、 「いま行きます」 と努めて平静を装って彼女の元まで歩いた。 「ハルキくん、どうしたの?」 「それはこちらの台詞です」 「綺麗でしょ、ここからの景色。わたし好きなんだ。でもハルキくん、こんな時間にここに居て良いの? ヤスダさんに怒られるよ」 「大丈夫です。ヤスダさんはもういませんから」 「え?」  トウコさんが何か二の句を継ぐ前に、僕は渾身の力で彼女のことを抱きしめる。それに対し始めは「冗談やめてよ」なんて言って笑っていたけれど、何も言わないでいたら次第に怖くなってきたのか「ねえ?」とか「離して」とかいう言葉へと変わっていき、それでもまだ無視していたら最終的には向こうも押し黙ってただブルブルと震えるだけになった。 「怖いですか?」 「……うん。何だかいつものハルキくんじゃないみたい」 「これが、本当の僕です」 「いや、違うよ。なんでかは知らないけど、……ちょっと落ち着いた方がいいよ」 「僕だけじゃなくて、トウコさんの方でも、僕のことを抱きしめて下さい。そしたら落ち着きます」 「どうして?」 「あなたのことが好きでした。ずっと」  過去形なんだ、と呟きながら微笑するのが聞こえた。それに合わせてセミロングの髪が少し揺れて、僕の鼻の頭をくすぐる。彼女からこんな甘ったるい香りがすることを僕は今日初めて知った。僕は依然として力を緩めていないものの、彼女の震えはもう治っている。 「駄目ですか」 「どうしてそう思うの?」 「だって、そういう力任せに、まるで道具みたいに扱われることがずっと辛かったんでしょ。でも僕はヤスダさんと違ってあれやこれや要求するつもりはありません。……ほんの今だけで良いんです」 「ありがと」  そう言うと彼女はやっと手を僕の背中の肩甲骨のあたりに回し、ほとんど撫でるくらいの微細な力で僕のことを抱きしめた。  夕陽はもう山の影に隠れてしまったが、まだ空には茜色の余韻が残っている。  ほんの十秒ほどの、いままで歩んできた、そしてこれから歩むであろう人生の全体と比べると殆ど無いに等しい時間ではあるが、僕はきっとこの温もりを一生忘れはしないだろう。  僕が力を解くと彼女もだらんと腕を弛緩させた。そうして僕たちは自然な距離までお互い離れると、最初は照れ臭さから笑い合ったが直に彼女が泣き始めた。僕はまた抱きしめたい衝動に駆られたが、それはたった数十秒前の自分の「今だけで良い」という意志を裏切る行為であるし、また時間も最早あまり残されていないように思われたから、なんとか踏みとどまった。 「わたし、これからどうしたら良いんだろ」 「さっきも言いましたが、ヤスダさんはもういません。トウコさんは自由です。トウコさんの好きなように生きれば良いと思います」  それを聞いた彼女は先程と全く同じ表情をしていて、つまり何も分かっていなさそうだったが、それはまた、一方では何だか僕の犯したことを責め立てているようにも映り、胸が苦しくなる。 「それでは、そろそろ僕は行きます」 「え、どこへ?」 「警察です。僕は取り返しのつかない過ちを犯してしまいました」 「過ち?」  雲が急速に僕らの頭上を流れてゆき、ほんの僅かの間に空気が一変した。辺りでは殆どもう夜が始まりかけていた。田舎の、地上の全てを塗り潰してしまうような夜が。 「三年前、就職活動に失敗し途方に暮れていた僕を、親戚だという理由だけで雇って下さり、本当にありがとうございました」 「そんな改まって感謝されるようなことじゃないよ。だって、ハルキくんがもしわたしの立場だったとしてもきっとそうしたでしょう」 「正直に言うと、死ぬつもりだったんです。あの時。社会の誰からも必要とされず、別に僕の方でも社会に執着なんてなくて。でも、久し振りに会ったあなたがとても綺麗だったから、試しにもうひと月だけ生きてみようと思えて、……それがふた月、み月と延びるにつれて、僕の中で想いは益々募ってゆきました」  彼女は何も言わない。誰そ彼時とはよく言ったもので、彼女がいま何を思っているのか、薄暗闇が彼女から巧妙に表情だけを奪い去ってしまう。 「あなたとヤスダさんの関係には程なく気が付きました。でも、僕はあまりに無力だった」 「別にハルキくんは悪くないし、ヤスダさんも悪くない。全て、そういう運命だったというだけのことで」 「何故あんな人のことを庇うんですか? あいつが、あなたのお父さんと旧知の間柄だから? お父さんが亡くなられた後の工場の立て直しを買って出たから? ……確かにあいつは経営者としては優秀だったのかもしれませんが、だからと言って何をしても良いというわけじゃない」 「うん、あの人が人間的に少しおかしいんだってことは分かってる。でも、人は誰だって完璧な存在にはなれないから」 「そんな話がしたいんじゃないんですよ」僕は思わず声を荒げる。「何故トウコさんは、もっと自分自身のことを大事に出来ないんですか。勿論どんな人間も完璧ではないし、社会はそのことにもっと寛容にならないといけないとも思います。でも、別にあなたが全ての人間を許す必要はないんです。嫌だと思ったら嫌だと声をあげて欲しいし、別に笑いたくもないのに笑わないで下さい。何度でも言います。僕はあなたが好きだ。そしてあなたが辛いことが僕はあなた以上に辛い」 「悪いけど、もうわたしは、そんな人並みに人生を楽しんで良い人間じゃないよ。ここに来たってことは多分だけど、どうにかして読んだんでしょ、遺書」 「……はい」  改めてトウコさんの口から遺書という言葉が出てくるとやはりどきりとする。社長室のデスクの上に置かれていたそのたった一枚の文書には、死を決意した一番直接のきっかけとして、ヤスダさんとの間に身籠ってしまった子供を中絶したことが挙げられていた。 「ヤスダさんは確かに悪い人なのかもしれない。でもまだこの世に生まれてもいないあの子には何の罪もあったわけない」 「望まれない子供なら、生まれてこない方がマシなことだってある」 「そんなこと、言っちゃダメだよ」 「すみません。言い過ぎました」  トウコさんの寂しく微笑む声がする。彼女のそんな声を聞くことも、今後の人生では恐らくもう二度とないのだろう。 「いいよ。わたしを慰めるために言った言葉でしょ」 「でも、全ての人がこうしてこの世に生まれてきたことに何かしらの意味があるのだとしたら、やはりトウコさんは死ぬべきじゃない。生まれ得なかった子供の分まで精一杯生きて、生を謳歌して、償うべきだ。それがあなたに与えられた人生なのだから。……それでも、理屈じゃなくて、どうしても生きることが辛くなる瞬間というものは訪れるかと思います。その時は、……ほんの少しでも良いから僕のことを思い出してくれると嬉しいです」 「どこかへ行ってしまうの?」  ヤスダさんを殺してしまいました。その質問に、僕がたった一言そう答えると、彼女はへたりとその場に座り込んでしまった。僕はそんな彼女を置き去りにして橋を去ると、駅の方へと迷いなく歩を進めるのであった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!