とある湖畔のアパートにて

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香代の脳裏にあの光景がよぎった。 豪雨豪雨豪雨強風強風強風・・・ 叫びたかった。絶叫したかった。一年前、雄介と同居している時、香代は妊娠した。それが分かった時、二人は焦った。二人とも既に三十路を超えた派遣社員の薄給の生活。ボーナスも昇給もない中、二人は将来など何も考えることなく戯れに同棲していた。いや両者とも単に一人で生きるのは寂しいからと。無論子供など望んでいなかった。そもそも結婚など意識の片隅にも無かった。香代は中絶を急いだ。生んだところで育てられるわけがない。雄介は反対した。頑張って稼ぐから生めよと。しかし雄介の目には覚悟がなかった。本気なのと香代が問うと、雄介は目をそらした。それが逆に香代の心に火をつけた。そう、あんたが逃げたいなら私一人でも育ててみせる。三か月後、周囲に気づかれる前に香代は仕事を辞めた。だが、お腹が段々と大きくなっていく中、香代の決意も揺れていった。これから先もずっと確たる収入など期待できない。自分がそんな仕事に就けるわけもない、しかも子供を連れて?雄介だっていつ自分の前からいなくなるか。どうしよう、母親に相談しようか。母親?あの人だって自分の事で精一杯だ。膝やら腰やら痛めてる中、何とかパート生活をしてる。父親は離婚してどこにいるのかも分からない。友達?誰がこんな私を助けるっていうの。やっぱり無理だ、でももう中絶もできない・・・ 二人は運が良かった。香代と雄介はアパートの二階に住んでいて、隣も、真下も空室だった。そこで出産に挑んだ香代の陣痛に耐えるうめき声が、誰かの耳に入ることはなかった。
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