とある湖畔のアパートにて

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香代は両肩を震わせる。 そして私はあの子を産んだのだ。病院ではなくアパートで。私が汗だくでゼイゼイ呼吸する中、雄介が赤ん坊を取り上げた。雄介は、お湯で静かに丁寧に赤ん坊の体を洗い私のところに。赤ん坊はふぅぅふぅぅと声を発し、微細に体を揺らしていた。男の子だった。雄介は無言で部屋の隅に座っていた。 彼女は雄介の手紙を読むことなく破った。 「健やかになんてありえないのよ。こんな時代に、こんな社会で」 あの日は凄い台風で、夜中激しい風が窓を叩いていた。私は言った。 この子が大人になるまで面倒みるなんて出来ないよ。 じゃあ、どうするんだよ。 私達なんて、世間からすればどうせ見えない存在なのよ。貧しくて無力で。そこで何が起こったって、しょせん笑われるだけじゃない、誰が理解してくれるっていうの。今時、子育てなんて恵まれた夫婦がやることよ。 真夜中、私は赤ん坊を抱いて車に乗った。雄介が運転した。 豪雨豪雨豪雨強風強風強風・・・ 香代の目に周囲の風景がぐるりと映った。パシャンパシャンと波が寄せる湖の岸、その隣の公園で遊ぶ子供たち、それを見守る親。道路では車がぽつぽつと走っている。空は快晴で、家々のベランダでは布団が干されている。 私の人生はこんなどこにでもある日常の風景にすら届かないものだったのよ。でもそれでいい、この中に自分を埋めてしまえばいい。そうすれば、あんなこといずれ忘れるだろう。雄介だって、転居して少し時間が経てば手紙も送らなくなる。また別の女でも作って。それで終わりに。今は罪の影が心の中をうろついているから。 それとも発見されるとでも思ってるの、そんなことあるわけない。 香代は手紙をポケットに突っ込み、車のドアを開け運転席に座り、勢いよくドアを閉める。一人の空間の中、香代の掠れた声が響いた。 「私は、真夜中、あの子を台風で荒れ狂う川に捨てたのよ」 香代はハンドルを強く握り、大きく息を吐いて車を発進させた。
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