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一人の男が屋敷の門をくぐる。
玄関まで続く砂利道には綺麗に咲く満開の桜が花弁を舞わせ、この陽気にも関わらず雪に降られているかのようだ。
男の手には土産が提げられ、肩に掛けた白い羽織が靡くと藍色の着物が顔を出す。
「あら、幽さん。おはようございます」
「おはよう。雪華(せつか)さん。相変わらず綺麗だねぇ」
「ふふ。ありがとう」
庭先で花壇に水をやっていた女性と挨拶を交わす。
雪華はこの屋敷の主の妻。
長く美しい黒髪の掛かる、鮮やかな紅色の着物が桜の中によく映える。
幽が彼女に惚れていたのは、さてもう何年前になるのやら。
結局、ここの主で幽の親友である夜月が彼女と結ばれ、ついぞその恋は実らなかったが。
「夜月さんを呼んできますか?」
「いやー、俺はあいつに呼ばれて来たからね。ちっと上がらせてもらうぜ」
「はいはい。後でお茶淹れて持っていきますね」
「なら、ついでに小さい奴でいいから皿も二つ頼む。土産があるからさ」
後ろに手を振り、幽は引き戸を開けて中へ入る。
此処へ来た回数など最早覚えてはおらず、まあ勝手知ったると言ったところだ。
木製の床を裸足で歩く音を鳴らしながら、迷うこともなくその部屋へと辿り着く。
「邪魔するぞ」
「ああ、入ってくれ」
夜月の部屋は小さな机と蝋燭立てと本棚だけの簡素な空間だ。
寝室は別にあるようだが、仄かに桜の香る畳の上で横になればさぞ心地よい眠りに就けるだろう。
夜月はそんな部屋の中央で、入口側を見ながら正座していた。
窓から差し込む光は明るく、夜月の黒い着物がやたら目を引く。
「けぇきを買ってきたぜ? 西洋の焼き菓子だそうだ」
「ほう、雪華の茶を待っていただくとしよう」
そこからは暫く他愛のない会話が続いた。
剣客である幽の持ち掛ける世間話はとても平和な物ではないのだが、夜月は無愛想ながら適度な相槌を入れながらしっかりと話を聞いてくれる。
堅苦しすぎる夜月と軽薄すぎる幽。
まるで対極な二人だが、彼等を知る者に関係を聞けば全員が口を揃えて親友と答える程の長い付き合いだ。
「お父様。お茶をお持ちしました」
部屋の入口に、小さな人影が一つ。
母親譲りの黒髪が綺麗な少女……とは言え幼子ではなく、もう既に齢は17を超えた娘だ。
「ありがとう桜花」
「おや、お手伝い偉いね桜花ちゃん」
「し、失礼します!」
照れ臭いのか、それとも苦手に思われてるのか、二人の声掛けに少し顔を赤らめながらお茶だけ置いてそそくさと部屋を出ていってしまった。
桜花を見送った後に二つの菓子を取出し、包みを剥がして皿に乗せる。
「これは……どう食べるのだ?」
「…………箸じゃねぇのか? こうやってよ」
「箸……持ち歩いてるんだな……」
「まあな」
柔らかい生地を箸で摘まむのは少々手子摺るかとも思ったが、豆腐に比べれば容易いものだった。
「ほう、こいつはなかなか。甘ぇには甘ぇが、なんとも不思議な甘さだな」
「どれ、私もいただこう」
「手前もこの部屋に箸常備してんのかよ」
「まあな」
夜月もソレを口に運ぶと、ふむ、目が点にとはまさにこの事か。
知りうる言葉で上手く言い表せないと言った表情をしている。彼のこんな顔はなんとも珍しい。
「さて、そろそろ本題に入らねぇか?」
「それもそうだな」
箸を机に置き、正座の姿勢で幽へと向き直る。
一方の幽は胡座のまま、膝を支点に頬杖だ。
座りかた一つにしても性格が出る。
「雪華が、病を患った」
さて、なんと返したものか。
声音、表情、姿勢の崩れ、いずれを見るにしても変化はなく、幽はこれが今日の話の芯ではないと読む。
空いた手の平を見せ、続けろと促す。
小鳥の囀りが小窓から聞こえる静かな春の日には、しかし妙な緊迫感が満ちている。
「完治の余地はある。医者を呼ぶ金もある」
「ほうほう。なら治しゃいいだろ」
「いや……」
ここだ。
部屋に流れる気配が変わる。
次に夜月が放つ言葉こそ、今日呼びつけられた理由……その芯だろう。
「桜の守を、私と雪華の代で絶やそうと思う」
「な!?」
桜の守はとある妖桜を守護し、その見返りに桜の加護を受けて栄えてきた一族だ。
女は桜の巫女として、人のそれを超える寿命を得る。
尤もそれは老衰に対する物であり、不老でこそあれど不死に非ずと言ったところか。
先代までの桜の巫女は、その長すぎる生に疲れて代を変わり生涯を終えるのだが、夜月の物言いではまるで……。
「桜を枯らすつもりか!?」
「ああ、そのつもりだとも」
継承を行わずに桜の巫女の命を絶つ。
それはつまり、かの妖桜を枯らすことを意味する。
「手前!! 自分が何言ってるのか分かってんのか!」
身を乗り出し、夜月の胸ぐらを掴む。
「手前一人で死ぬなら文句は言わねぇよ! いや、手前と雪華の二人で死ぬにしても何も言わねぇよ俺は! じゃあ桜花ちゃんはどうなる!」
「あいつは連れて行かぬ……」
人斬りの現人神、幽。
それに胸ぐらを掴まれ、怒りの形相で睨まれてなお汗も流さず、怯えもせずに淡々と夜月は続ける。
「桜花を、お前に託したい」
「断る! 手前のガキくらい手前で面倒を見やがれ!」
「できぬのだ!!」
初めて……幽の知る限り初めて夜月が声を荒げた。
「私は先代の桜の巫女を看取った。生きることに疲れ、日におかしくなって行く自分の母を。痛々しかった。愛した男……父はそれを支える事に疲弊し、先に命を絶った。分かるか? 桜に狂わされたのだ。桜の守など……永遠など人の心を持つ者には呪いでしかないのだ!」
「………だからって……だからってお前……」
「頼む……」
絞り出すような声だった。
親友の心よりの願い。そして、かつて恋をした女の願い。
幽は、これ以上拒絶の言葉を紡げなかった。
「いくつか条件がある」
「……なんだ?」
胡座で座り直し、胸の前で腕を組む。
親友も、その女もとんだ大バカ野郎だ。
せめて、せめてこんな無茶苦茶な事を押し付けた奴には、可能な限り苦しんでもらわねば割に合わぬ。
「一つ俺と桜花に桜の呪いを掛けろ。寿命を千年伸ばす呪いを」
「……わかった」
「次に、その呪いが解ける千年の後、俺か桜花のどちらかが後を追う」
「……わかった」
「そして最後に」
ここが肝心だ。
この大バカ野郎共に与える罰。
……否。
こんな頼みを断れなかった自分への罰か。
「手前と雪華を俺に咲かさせろ」
「ッ!」
何処から取り出したのか、黒い刀の切っ先が夜月の眼前に突き付けられていた。
「バカを言うな! そんな事をお前に」
「バカ言ってんのは手前だよ。桜花の生きる糧にはなってやるが、それは憎悪だ。あいつを俺は庇護しない。俺を怨み、俺を殺したいと願う念で生きてもらう」
違う。
真意は違う。
だが悟らせまい。
幽は斬ることしか知らない。不器用で、気の遣い方もズレているのだろう。
だが、それでも……。
――親友に、愛した女に……桜花の親に、愛する者を殺める感覚を知ってほしくなかった――
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