§1

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§1

 それはあたかも、たまご色とカラメル色をした理想の塊がふるふるっと天から降ってきたかのようだった。 「な……なんだこれ」  感動に胸を震わせながら、愛沢薫(あいざわかおる)は皿の上のカスタードプリンにスプーンを伸ばす。  記憶というのはしたたかだ。時とともに美化され、理想化されていく。主観に甘やかされ尽くした思い出はひたすら美しい。対して、現実は不利な闘いを強いられるのが常だ。  しかし今薫の目の前にあるプリンには、たった一口で思い出を打ち砕くほどの強烈なインパクトがあった。  適度な弾力のある表面は、銀色のデザートスプーンの先をほんの一瞬押し返した後、極細の糸がぷつりと切れるような感触を指先に伝える。明け渡された切り口は密度が高く、だらしなく崩れたりすることもない。  その凛々しい印象が、口に含んだ瞬間に一変する。ぎりぎりのところで保たれていた形が舌の上でとろりと崩れる。バニラの香りとカスタードの素直な優しさのすぐ後を、カラメルのほろ苦さと濃厚な甘さが追いかけ、手を取り合うようにして喉を滑り落ちていく。  こんなにもシンプルでありながら官能的な食べ物が他にあろうか。  パティシエの腕はカスタードプリンを食べればわかる、が薫の信条だ。こんな神業のようなプリンを作る職人がいる店で、他のケーキの味を確かめずに帰るわけにはいかない。  薫はイートインコーナーのテーブルから決然と立ち上がり、色とりどりのスイーツが並ぶ宝石箱のような冷蔵ケースの向こうに立つ店員に声をかけた。 「すみません」 「はい」  にこやかな笑顔を返してきたのは、洋菓子店よりも美容室やセレクトショップにいそうなスタイリッシュな雰囲気の男性店員だ。 「洋梨のタルトと、シュークリームと、あとモンブランを追加でください」 「ありがとうございます。お持ち帰りのお時間はどのくらいでしょうか?」
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