§3

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 三百六十度どこから突っ込んでもただの気休めでしかありえない言葉だ。でもだからこそ、取って付けたようなあの一言は薫にとって特別だった。決してうわべを取り繕ったりしないこの後輩が、自分を励まそうと気休めを言ってくれたことが嬉しかった。  けれど、どうやら唐島本人はそんなことはすっかり忘れてしまったらしい。当たり前だ。あんな他愛のない会話をそんなにいつまでも覚えているはずがない。  相手のことを、特別な存在として意識していない限り。  初恋の相手と再会なんてするもんじゃないな、と思い知る。なけなしの思い出を後生大事に磨き続けて、そのきらめきに心の慰めを見出していたのに、今更それがメッキだったなんてことを知らされたくはない。どうせ実らなかった片想いなのだから、綺麗な形のままでとっておきたかった。  胸の奥にじわりと広がる苦さを相殺しようと、薫はスプーンを手に取ってカスタードプリンを一口すくった。 「あー、やっぱりプリンはこれでなきゃなあ」  薫は目を閉じて満足の吐息をつく。仕事のストレスも青い春を振り返ってしまった気恥ずかしさも、唐島のプリンはすべて甘く、優しく包み込んでしまう。 「愛さん」  唐島が、ふいと頬杖を外した。切れ長の目を真っ直ぐこちらに向け、テーブル越しにわずかに身を乗り出してくる。  唐島の目は、淡い色の虹彩と真っ黒い瞳孔とのコントラストが強いせいか、感情の動きを読み取りづらい。こんな風に瞬きもさせずに見つめられると、つい身構えてしまう。 「今も、あの学食のプリンが理想?」 「へ」  真剣な顔で、何を言い出すかと思えば。 「ああ……まあ、そうかな」  薫は曖昧に頷いた。  どれほど評判のいい上等なプリンを食べても、あの素朴でありながら丁寧で繊細な味わいには適わないと、どこか物足りなく思っていた。記憶を塗り替えるほどの味に出会ったのはこの唐島のプリンが初めてだ。  だが、作った本人に正面切ってそんな賛辞を贈るのはさすがにこそばゆい。
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