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だが水上は引き下がる気配を見せない。
「じゃあ言わないって約束する代わりに、ひとつお願いを聞いてもらえません?」
「……お願い?」
何か胡散臭い気配を感じて、薫が鼻の頭に皺を寄せたときだった。
「何やってんだ、水上」
背後から地を這うように響いてきた低い声に、薫は危うく悲鳴を上げそうになる。
計ったようなタイミングで登場した唐島は、ミルフィーユとキャラメルタルトとカスタードプリンが綺麗に盛り付けられたプレートを手にしていなければ、今にも水上の胸倉に掴みかかりそうな勢いだ。
だが水上はそれを、ふふんと鼻であしらってしまう。
「そんな怖い顔しなくても、単に『愛さん』のこと口説いてただけだよ」
「口説いてた?」
凄むような声に合わせて、いつもより乱暴な手つきでプレートがテーブルの上に置かれる。それに対して水上は面白がるような笑みを口に含み、ひょいと肩をすくめてみせる。
「ほら、例のあの件だよ。どうせお前、まだ言い出せてないんだろ?」
例の、あの件?
「余計なことすんな」
さも不機嫌そうに言い捨てると、唐島はいつものように向かいの席にどさりと腰を下ろす。水上はひらひらと手を振って、ショーケースの向こうの持ち場へと戻っていく。
一人、薫だけが話が呑み込めずにいる。
「例の件って、なんだよ」
無言で水上を睨みつけていた唐島が、ひとつ溜息をついて顔を薫の方へと向け直した。
「愛さん」
瞬きの少ない切れ長の目。ヘーゼルの虹彩と、その中央に的のように丸く浮かぶ黒い瞳孔。それがひたむきなほど真っ直ぐに自分に向けられている。
「な、なんだよ」
「水上じゃなくて、俺に口説かせて」
何か突き上げるような大きな音が聞こえたと思ったら、自分の鼓動だった。椅子から転げ落ちそうになるのを、咄嗟にテーブルの端を掴んで持ちこたえる。
「愛さんがそんなつもりでこの店に通ってるんじゃないってのはわかってます。だから、遠慮なく断ってくれていいですから」
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