§6

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§6

 指定された日時は定休日の水曜日、午後二時だった。薫は午前中で仕事を一段落させ、当然のように昼食は抜いて、「ヴィトライユ」へと向かう。 「鍵は開けておくからそのまま入ってきて」  前もって唐島からそう言われていたので、薫は「Closed」の札が下がった扉を遠慮なく押し開ける。  店内は照明も入っておらず、しんと静まり返っていた。いつもは色とりどりのケーキが並んでいるショーケースも、今はただの空っぽのガラスの箱だ。薫の指定席のようになっているテーブルに、窓から差し込む外光がステンドグラスの美しい影を落としている。  見慣れた店内が全然違う場所のように見えてくる。座標軸が少しだけずれた空間に迷い込んだかのような不思議な感覚だ。 「お忙しいところ、すみません」  厨房の扉から出てきた唐島は、いつものように金に近い茶色の髪を無造作に後ろで束ね、白いコックコートを着ている。だが、今日は店の制服である襟元のスカーフもベレー帽もなしだ。そのせいか、かしこまった口調とは裏腹にいつもよりもラフな印象だ。 「試食は厨房の方でお願いしていいですか」  唐島がまるで賓客をエスコートするかのように扉を手で押さえて招き入れる。そんな些細な仕草にときめいている自分が照れ臭い。 「あれ、水上君は?」  促されて厨房へと足を踏み入れた薫は、そこにも水上の姿が見当たらないので戸惑う。 「今日は来てません。もう試食のしすぎでわけがわからなくなってるし、愛さんも気が散るだろうしって言うんで」 「いや……えっと、そうなのか」  歯切れの悪い相槌を打っていると、調理台の手前で振り返った唐島が、腕組みをしてむっつりと言う。 「水上がいた方がよかったですか」 「い、いや、そういうんじゃなくて」  二人きりだとわかった途端に、どっと緊張が押し寄せてきた。
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