§8

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§8

 その夜携帯にかかってきた唐島からの電話に、薫はどうしても出ることができなかった。  本来なら、試食を途中で放り出してきてしまったことを謝るために自分から電話しなくてはいけなかったと思う。仕事として依頼されたわけではなかったけれど、唐島の方はもちろん仕事だった。あれほど真剣にこちらの意見に耳を傾けてくれていたのに、あまりにも勝手なふるまいだった。  でもそれを謝るには、あのとき取り乱した理由を説明しなくてはならない。  手を振り払ったときの唐島の、わけがわからないという顔を思い出す。いきなり指にキスされて焦ったなどと言ったところで、そんなつもりは微塵もなかった唐島は面食らうだけだろう。逆に、自分が唐島をそういう風に意識していたことを暴露してしまうだけだ。  どうすればいいのかわからなくて、何度かかかってきた電話を無視してしまう。知らん顔をして「ヴィトライユ」へ行くわけにもいかない。  逡巡して落ち込む気持ちと反比例するように、ハードルはどんどん高くなる。あの日の行動を説明するだけでなく、電話に出なかったことにも店へ顔を出さないことにも、もっともらしい理由が必要になってきてしまう。そうやって一日延ばしにすればするほど、難問だらけの宿題が積もり積もっていく。  明日こそ、来週こそ、と決心を鈍らせているうちに、気が付けば一カ月以上が経ってしまっていた。唐島からの電話はとっくにかかってこなくなっていた。 「……聞いてますか、辛島さん」  電話口の向こうで心配そうな声を上げたのは、編集者の武田だ。 「ああ、はい。すみません」  今日何度目かの同じやりとりに、武田が深く溜息をつく。 「とにかくこのままではちょっと使えないので、せめてもう少しオブラートにくるんだ書き直し案を送ってください。お願いします」 「……わかりました」
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