§8

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 苛々とコースターの上に置いたマグカップに手を伸ばすが、中身はとっくに空だった。そうだった。コーヒー豆はこの一杯を最後に切らしてしまっていたのだ。  以前取材した自家焙煎の店の深煎りブレンドが気に入って、自宅でスイーツと合わせるコーヒーはそれと決めている。ところがあいにくその店は「ヴィトライユ」のすぐ近くなのだ。もともとコーヒーを買いに行く途中で、新しく洋菓子店がオープンしたのを見つけたのがきっかけだった。あの店に行くとなると、どうしても「ヴィトライユ」の前を通ることになる。それを躊躇しているうちに、いよいよストックを使い切ってしまった。  まして、唐島の作るスイーツに至ってはもうかなり長いこと口にしていない。生菓子はもちろんのこと、冷凍しておいた買い置きのカヌレや、日持ちするマドレーヌやサブレもとうに底をついていた。  薫は普段ほとんど自炊をしない上に、仕事が立て込んでくるとまともに食事をしなくなる。気分転換に淹れるコーヒーと一緒に食べる甘いものは貴重なカロリー源だった。 「さすがにこのままじゃ餓死すんな」  薫は椅子から重い腰を上げて、財布を片手に外へ出る。エレベーターを降りてマンションのエントランスを出たところで、吹き付けてきた強い北風にぶるっと身を震わせた。  外はとっぷりと日が暮れている。今年のカレンダーが最後の一枚になるまではまだ数日あるが、既に真冬のような冷え込みだ。そんな寒さの中に、薫はイージーパンツに薄手のスウェットパーカという部屋着のままで出てきてしまった。 「ま、いっか」  コートを取りに部屋まで戻るのも面倒くさい。どうせ徒歩三分程度だと、両肘を抱え込むように背を丸めて寒々とした住宅街の道を急いだ。それでも、バス通りの角のコンビニに着いたときにはすっかり身体が冷えてしまっていた。
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