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 暖房の効いた店内に入っても空腹感は少しも刺激されない。パックのごはんやレトルトのカレーなどを義務感だけでかごに入れていく。インスタントコーヒーもカップスープも、とにかく最初に目についたものを機械的に手に取る。正直、ここに並んでいる何を食べたところで美味いと感じるとは期待していなかった。それなら何を選ぼうが同じだ。  レジに向かう途中の冷蔵ケースの前で、ふと足が止まる。そこには、いつか試食した「究極のとろけるプリン」が「好評発売中」のシールを貼られて並べられていた。そういえばここのチェーンの商品だった。  急に、打ちのめされるほどの喪失感が襲ってきた。  今この瞬間、唐島のプリン以外に食べたいものなんて何もない。でもそれは学食のプリンと同じように、もはや手に入らない幻の味になってしまった。しかも今回は自分の一方的な落ち度で。  一度手に取ったその「究極のとろけるプリン」を投げやりに棚に戻し、足を引きずるようにしてレジに向かう。店員に代金を払い、ビニール袋を手に表に出る。  今回の悩み相談の内容を思い出す。喧嘩をした相手と毎日学校で顔を合わせなくてはならない相談者のことが、薫はいっそ羨ましい。  大人になって自分で逃げ道が作れるようになると、自分のような臆病者は、ついそちらを選んでしまう。そして最初の一歩をそちらへ踏み出すと、もう後戻りはできなくなるのだ。まるで迷路の奥に誘い込まれるように、元へ戻る道はどんどん遠ざかる。自分の弱さと向き合うことから逃げようとした結果、気が付けばとても大切なものを失ってしまう。  強い風に身体が吹き飛ばされそうになる。しばらく体重計にも乗っていないが、武田に見破られた五十キロという体重には下方修正が必要かもしれない。
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