§9

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「武田さん」 「はい」 「最終回にこれを選んでくれて、ありがとう」  薫はテーブルの上に伏せるように深く頭を下げた。膝の上に揃えた拳をきゅっと握る。 「こんなの虫のいいお願いかもしれませんが、もしまたチャンスをもらえるのなら次こそは頑張ります」 「いえ、むしろ病み上がりのところ申し訳ないくらいなんですけど、すぐに別のお仕事を依頼することになりそうなんですよ」  武田の声が、ようやく明るくなった。 「バレンタインに向けて、これからブレイクしそうなチョコレートスイーツを数回に分けて特集したいんですけど、これは是非辛島さんにお願いしたいと思ってます」  その言葉に、山椒の隠し味を効かせたブッシュ・ド・ノエルの味を思い出してしまって、ちくりと胸が痛んだ。 「何か耳寄りな情報があったら知らせてくださいね!」  だが、いつもの仕事熱心な武田の表情に戻ったのを見て薫もほっとする。 「そういえば今日のお菓子、この前のカヌレのお店のと違うんですね」  薫の持参したバウムクーヘンのパッケージを見ながら、武田が言う。心を読まれたみたいなタイミングに、ぎくりと顔がこわばる。 「ああ……ちょっとこのところ、あっち方面にまで足を伸ばせてなくて」  本当はこの編集部に来るよりもよほど近いのだが、心理的には地球の裏側のように遠い。適当にごまかすと、武田は「あーそうですよね、寝込んでたんですもんね」と勝手に納得してくれる。  バレンタインの仕事の詳細については後日メールで連絡をもらうことにして、薫は編集部を後にした。
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