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§10
決心はついたものの、実行に移すまでには時間がかかった。
年末進行でただでさえ締め切りのきつい仕事が回ってきていた上、数日間寝込んだせいでスケジュールがさらにギリギリになってしまった。「キュリオ」からは早くもバレンタインスイーツの取材依頼が何件か入っている。なんとかそれらの仕事を片づけ、一息つけるようになった頃にはもう十二月も下旬に突入していた。
クリスマス前の洋菓子店の殺人的な忙しさは、薫もよく承知している。唐島は寝る間も惜しんで働いていることだろう。そんな時期に話をしたいなどと店に押しかけるのは迷惑以外の何物でもない。忙しさのピークが過ぎるまで行くのは控えるべきだろう。
こんなにもクリスマスが恨めしかったことはなかった。そして、ケーキをひとつも買う気になれないクリスマスも初めてだった。どの有名店のどんな豪華なスイーツを食べたところで、唐島の作るあのブッシュ・ド・ノエルやショートケーキの味に叶うはずがないことはわかっていた。
ほとんど飢えにも近い焦りをぐっと押さえつけ、二十六日になってようやく「ヴィトライユ」へと向かった。
重たい灰色の雲から雪でも落ちてきそうに冷え込んだ日だったが、店に近づくにつれ、薫は手に汗を握り始める。
覚悟を決めて出てきたつもりだったが、店内のあのテーブルにいざ唐島と向かい合って座ったら、果たして正直に自分の胸の内を明かすことができるかどうか自信がない。色素の薄い瞳がカメラの焦点を合わせるようにじっとこちらに向けられるところを想像すると、店のドアの前で、まるでバンジージャンプに臨む前でもあるかのように足がすくむ。
それでも引き返すつもりはなかった。戻れないのなら、また始めるだけだ。たとえこの先何年かかろうとも。
ままよ、とドアを開ける。
「いらっしゃいませ……って、あれ? あ、愛沢、さん?」
「ご無沙汰」
ショーケースの向こうで目を丸くする水上に会釈する。幸い、他に客はいないようだ。
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