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「かーべーをあつーめてー」
今朝もまた思わず一緒に口ずさんでしまう。
この春、隣に引っ越してきた男子大学生の「田中誠」と言う奴は、良く大声で歌を歌っていた。それは、薄っぺらい作りのアパートでは、丸聞こえだった。
機嫌の良い時は「壁をあつめて」を、不機嫌な時は「なごり雪」を歌っているようだ。
今日は何か良い事があるのかな?そう思いながら身支度をする。
「かーべーをあつーめてー、ラララララーン、ララランララー」
「田中誠」の歌声に合わせて、僕もつい口ずさむ。実は僕は、この歌の「壁をあつめて」以外の歌詞を知らなかった。
壁の向こうから聞こえる歌声は、機嫌の良い時も悪い時も、側に人がいると感じさせてくれて、僕としてはそんなに悪くはない気持ちにさせてくれた。
準備が出来たので、出勤しようと、玄関の戸を開けると、隣人とバッタリ会った。
「田中誠」と表札のある部屋から現れたその人は、いつものショートカットに素っぴん、Tシャツとジーンズの格好とは違い、ほんのりと化粧をしていて、スカート姿のスーツにヒールを履いて、そこに立っていた。
思わず、マジマジと見つめてしまう。
田中さんと朝、顔を合わせるのは、今日が初めてだった。
一瞬、恋人だろうか?とも思ったが、それにしては顔が「田中誠」にそっくりだ。
お姉さんだろうか?
「おはようございます」
思い切って声をかけた。
鍵をかけていた、田中さんの手が止まり、こちらに顔を向ける。
「おはようございます」
その顔を見て、ハッキリと気づく。「田中誠」は女の人だったのだ。
唖然と立ちすくむ僕に「朝、会うのは珍しいですね」と田中さんが微笑みながら言う。
「そうですね、たぶん初めてじゃないですか?」
つられて僕も、笑顔で答えた。
「田中さん、いつも歌を歌ってますよね」
そう言うと、彼女の顔が強張った。
「スミマセン」と謝るのを見て、イヤイヤと否定する僕。
「僕、にぎやかなのが好きなんですよ。田中さんの歌声、実はいつも楽しみにしてて。前の住人はすごく静かな人だったんで、毎日、死んでるんじゃないかと思って不安になるぐらいで。隣に人の気配がする方が安心するんです」
そう言うと、少し笑ってくれた。
「隣から何も物音がしないって、怖くありません?」
「田舎育ちなもので、つい大声で歌ってしまう癖があって」
申し訳なさそうに言う、田中さん。
「本当に何か物音が聞こえる方が落ち着くんです。僕としてはドンドン歌ってもらいたいぐらいに思っているんですよ」
僕たちは向かう方向が同じらしく、いつの間にか歩きながら話していた。
「あの歌、「壁をあつめて」を歌う時は、機嫌が良い時ですよね?」
田中さんはキョトンとした顔をして、一瞬、間が空くと笑いだした。
「「風」ですよ、「風をあつめて」、はっぴいえんどの。「壁をあつめて」じゃ、意味不明じゃないですか」
えっ?そう言われ、恥ずかしさでいっぱいになる。
「風をあつめて、蒼空を翔けたいんです」
ふと、歌詞を口ずさむ。
「あ、そう言う歌詞なんだ。「壁をあつめて」のところしか知らなくて」
「だから、「風」ですよ!」
ケタケタと笑いながら言う田中さん。
まさか「田中誠」がこんなにかわいい女の子だったとは。
もう少し話していたいな、と思っていたら、「私、バスなんで、ここで」と、バス停で立ち止まってしまった。
「ああ、じゃあ、行ってらっしゃい。お仕事頑張って」と、僕も言い、田中さんは「ありがとうございます」と軽く会釈をして、そこで別れた。
(そうだよ、「壁をあつめて」じゃ意味がわからない。馬鹿だと思われただろうな)
そう思いながら、駅へと足を運ぶ。
そんな、僕の後ろ姿をじっと熱い眼差しで、田中さんが見つめていた事を、僕自身が知る事になるのはずっと後の事だ。
壁から始まる出会いがあっても、良いのかもしれない。
振り返ると、きっと、これが僕たちの「はっぴいすたあと」だったんだろう。
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