八月七日

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 ひぐらしの声が聞こえ、慌てて目を覚ました。夕日に照らされる中、見慣れない風景に一瞬まだ夢を見ているのかと思ったが、釣りに来ていたのだと思い出して息をついた。隣にあるはずの姿を探すと、沼の縁に立っている彼の背中を見つけた。  沼の先を見つめているのか、彼は動くことなくただ立っているかのように見えた。だけどその肩が僅かに震えているのが見えて、声をかけられなかった。  誰を思って泣いているのかなんて、聞かなくても分かっている。何で浩紀はこんな彼を置いて行ったのか。ここにいない相手を無性に殴ってやりたかった。 「修平」  一瞬の間の後、彼が顔を拭ってから振り返った。 「おう、起きたか。顔真っ赤だぞ」 「そういえば、ちょっと痛いかも……」 「焼けたんだろ、自業自得だばか」  彼が何ごともなかったかのように笑う。その顔を見ていられなくて、顔を逸らした。濡れた目元を見て見ぬふりして、腰を上げる。 「これからどうしよっか。今何時だろー?」 「さあな、俺はホテルに戻るぞ」 「え? なんで?」 「仕事だ」 「何それ、しなくていーじゃんそんなの」 「急な休みで残してきた分があるからな」 「……急に大人みたいなこと言うなよ」 「大人だ、ばか」  彼の言葉につまんねーのと呟いたが、片付けを始めた彼に何を言っても無駄だろう。急に大人に見えたその背中と、離れたくないなんて子供じみた思いが湧き上がってくる。 「じゃあ俺も行くよ」 「ダメだ、どうせ邪魔するだろお前」 「違うし! 俺も課題するから、いいでしょ?」  顔を顰めていた彼が、いつもの深いため息を吐き出した。それを了承と受け取り、彼の手から荷物を奪って先を歩く。何を言っても無駄なのはお互い様だ。  諦めたような彼が口を開く。 「その釣り竿、お前にやるから家に置いてこいよ」 「え? いいの?」 「俺は持って帰れないからな」  それがホテルにということではないと気づき、複雑な気持ちになる。彼の帰る場所はここではないのだと、遠回しに突きつけられているようだった。  とりあえず一旦解散して、彼のホテルに向かうことにした。急いで家に帰って荷物を置き、適当な課題と下着をカバンに入れて部屋を出る。台所にいた母さんへと声をかけてから、彼のホテルへと早足で向かった。
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