彼とわたしの世間話

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要望通り、わたしはそっと彼の正面へ。思わず地面のほうに視線を落とす。わたしのつっかけ代わりのサンダルと、彼のよく馴染んだ青のスニーカーとが、つま先を突き合わせていた。 簡素な作りで、形も崩れた不格好なわたしに比べて、細身ながらもしゅっと長い、地に足をつけた彼のものが、ひどく腹立たしい。 「っわ、なんですか」 「不満をぶつけています」 つんつん、という可愛らしいふうではなくて、がつがつ、と彼のつま先を蹴った。舗装されているのに剥き出しの地面のような砂利まじりの砂が、青の布地にこびりつき、白いゴムのつま先が茶色く汚れた。おまえも不格好になってしまえ。 だというのに、彼はどこか嬉しそうに微笑んでいた。 「……そこは怒るところでしょう?」 「お姉さんにされたことで怒るところが俺にはないですから」 「そういうのって口説き文句っていうんでしょ? イマドキの男子大学生はこわいわ」 「お姉さんにしか言ったことないですよ」 「ひええ」 「あ、その顔は地味に抉ります……ドン引きじゃないですか」 「オネーサンはそういうの、きみみたく慣れてないんです」 「ええ……俺がこんなにお姉さんを愛してるって伝えてるのに」 「どうしてあなたもドン引き顔になるの」 いたずらがばれて叱られたような、よく作られた悲しげな表情を浮かべていた。頼りなくゆがんだ眉、耐えるように噛まれた薄い唇。何よりわざとらしいのは、ひくつかせた目蓋の奥にある瞳だ。 「演劇部にでも入ってたの?」 「入ってるわけがないじゃないですか。そんなのに入ってたら、お姉さんに会う時間がなくなっちゃうし」 ぷく、とふくらませた頬。なんてあざといのか。 「大学生がしていい顔じゃないわよ」 腕に力が入り、指がのびた。彼の頬をつぶしてやろうと、引っ張ってやろうと、不埒な意思を込めた指。 しかし、わたしの指は、彼に触れる前にとまった。油の切れた機械。動力をなくした電子人形。 わたしは触れない。 「……卒業、したんだっけ? もう働いてる?」 宙ぶらりんになった指を、ゆっくり自分へと引き戻し、髪を整えるように動かした。 「そうですよ。在宅でもいい超ホワイトシステムエンジニアです」 「システムエンジニアね。うんうん、すごいね」 「お姉さん、どんな仕事かよく分かってないでしょ」 「……どうせ高卒フリーター既婚者ですよ」 言ったあと、あ、と手のひらで口を覆った。 朝焼け特有の、しっとり濡れた光りを浴びた彼が、暗い影をわたしへかぶせていた。闇に沈んだ彼の中から、二つの目玉が浮かぶ。 「手、見せてください」 頼むような優しい声音なのに、どこか張り詰めた空気をまとっていた。彼は怒らない。決して、怒鳴ったり、手をあげるようなヒトではない。 とたんに激しくなる鼓動を落ち着かせるように、わたしは胸を上下させ、ゆっくり呼吸した。そろそろ、と左手を差し出す。右手に用はないのだろう。 手をひろげ、さらけ出す。青白い、ほんのりと濡れたような肌。薄めの肉づきのひらに、五本の指。 「指輪は?」 二人のあいだにある手のひらを、彼は包むように手を添えながら言った。触れ合っていないのに、わずかな空間にとどまる空気から、彼の熱を感じそうだった。 「ずっと前からないまま。落として、見つからないみたい」 「探したの?」 「無理よ。どうやって探すの? 川、流れてるし。指輪だって、流れたか、岩にはさまったかだわ」 「そっか」 「……そうね、もう既婚なんて肩書きは必要ないものね」 「聞かないの?」 「どちらでもいいけれど、答えてくれるの?」 「新しく迎えた女の人、殴って警察に連れていかれたんだって。そのあとは知らない」 「そう」 彼は、わたしのつかめない手に触れる。手のひらを揉んで、手の甲を撫で、指をつまんで。薬指をつかんだ。
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