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今日は寄り道して帰ろう。私の胃袋が、コンビニスイーツを求めているから。改札を抜け、トートバッグを肩にかけ直しながら、私——湖西さなげはそう決心した。
今日は出張だった。事務所に寄らず直帰してよかったのもあり、退勤時間はいつもより早い。それでも空は既にオレンジ色と紺色とが混ざりはじめていて、夜の寒さをかすかにはらんだ風がするりと通り抜けてゆく。
日が落ちるのがずいぶん早くなった。空はなによりもリアルに、秋という季節の実感を与えてくれる。
秋。それは実りの季節。そして。
食欲の秋。
南瓜、芋栗、マスカットにりんご。それから、濃厚なチョコレートが出回り始めるのもこのくらいの時期からだっけ。
——ごくり。
思わず喉が鳴る。プリンのこっくりとした甘み。甘く芳醇な果実たち。焼き菓子の香ばしい匂い。生地に、皮に、歯が沈み込んでいく感触——
「……おっ、と」
脳裏に広がる色彩たちに気を取られたせいか、コンビニへ行く道の曲がり角を通り過ぎていた。このまま進めば、家まで約十五分。戻って曲がれば、コンビニまで十五分。加えて、買い物して家に帰る時間が二十五分。ちらりと腕の時計に目をやれば、針は十七時五十分を少し過ぎた頃を指している。
早く帰りたい気持ちと、食欲を天秤にかける。
……まぁ、ちょっと遅くなっても向かいの公民館からバスに乗ればいいし。そもそも、答えは最初から決まっている。何を迷う必要があるというんだ。
くるりと踵を返して角を曲がる。コンクリートの隙間から生える草に混ざる、枯葉色。駅からたかだか十五分ほど歩いたというだけなのに、もうすっかり日は落ちきっている。忍び寄る寒さに、上着の襟を寄せた。
早く行って、早く帰ろう。なんなら、ミルクがたっぷり入った、温かいカフェオレでも飲みつつ帰るのもいい。目眩く糖分の世界が私を待っている。
歩くスピードを速める。車のテールランプが私を追い越してゆく。
これなら、あとで食べる分のカロリーも消費できるだろうか。
「俺さぁ、最近糖分摂りすぎちゃったからか、お腹周りが分厚くなっちゃって」
困っちゃうよねぇ。ヘラヘラと笑う顔が、笑う声が、頭を過ぎった。
——十日ほど前の昼休みのことである。
給料日直後の私は、食後のデザートを食べようとしていた。クリームのたっぷりかかった、とろけるタイプの大きなプリン。お値段約二百十円。貧乏事務員の私にとっては、ちょっとした贅沢だ。
そんな時に、である。斜め向かいに座る先輩が——中原新治が、そんなことを言い放ったのだ。
確かに元々空気の読めない人だったし、私もあなたもそこそこふくふくした体格だけどさ。人がまさに今!甘いもの食べようとしてるのにどうして!どうしてそんなテンション下げるような事言うのよこのアホ!ボケ!おたんこなす!
——なんてことも、先輩に言えるはずはなく。乾いた笑い声をあげながら、ただただ私はプリンをぱくついていた。味の記憶は、あまり残っていない。
側から見ればくだらない事で一方的に私が怒っているだけだ。それでも、久々の贅沢に浮かれていた私は非常に、非常に許せなかった。あの人の空気が読めないところへの怒りが、積もり積もっていたのもあるのかもしれない。
それから約一週間、お互い出張などもあって中原先輩とは一度も顔を合わせていない。
歩くスピードが上がる。
大体なんなのよ。わざわざあの時、私にいう必要あった?今までそんなに自己主張する人じゃなかったから珍しいことだし、なんだかんだいい人だし、ああでも今度という今度は。毎度毎度空気読めない発言に何度腹立たしさを覚えたことか。もうほんと、信じらんない。ありえないわあのすっとこどっこい——!!
怒りに任せて歩いているうちに、コンビニについてしまった。時計を見ると十八時ジャストで、体がカッカと熱いのは怒りのせいだけではないことに気づく。足元のパンプスには細かな傷が増えていた。最近は色々歩き回っているのもあるから仕方ない。それでも、気持ちがげんなりし始める。入り口のガラスに映る自分自身も、髪の毛は乱れ化粧も崩れかけという有様で、なんとも情けない気持ちになった。
何してるんだろ。このまま帰ったほうがいいのかもしれない。いや、いけないいけない。これからが楽しい時間だ。……でも、買い物する前に少し身だしなみは整えたい。うん。そうしよう。
いつまでも脳内に居座っている笑顔を無理やり追い出して、大きく一歩、店内に足を踏み入れた。
「あれ?湖西さん?」
ばくん、と心臓が波打つ。
幻聴だろうか——今、背後から一番会いたくない人の声がした。ギギギ、と音がしそうな首を後ろに向ける。
「せ、先輩。オツカレサマデス……」
もさっとした本人とは裏腹に、真っ直ぐに整えられたスーツ。寝癖なのかお洒落なのか、ぴょこんと跳ねた髪。いつも猫背なせいで、一回り小さく見える——それでも本人曰く百七十五センチはあるという——ひょろりとした体。
眠たげな目をほんの少し見開いて、中原新治先輩はそこに立っていた。
「そっか。そういえば今日出張だっけ。お疲れ様」
「ありがとう、ございます……」
先輩、相変わらず今日も定時上がりですか。また糖分摂るつもりですか。三日くらい前にお腹周り気にしてませんでしたっけ。
そんな風に嫌味の一つでも言ってやろうかと思っていたのに、全然言葉が出てこない。
「こっちはいつも通り十七時に事務所閉めて後片付けして……とにかく、平和だったよ。そっちは大丈夫だった?」
なんだこの人。やけに今日は饒舌だな。
普段とはだいぶ違うテンションの先輩に気圧され、「大丈夫です」と蚊の鳴くような声で返しながら目をそらす。逃げ出したい気持ちが胸を覆った。
いや、逃げるな。ここで逃げたら、何のために——
「……せ、先輩」
「ん?」
「バスの時間。もう来ちゃいますよ」
私の目と先輩の目が、同時に点になった。
ペポペポという入店音に見送られて外に出れば、濃紺の空に星がいくつも瞬いていた。
歩く振動に合わせてガサガサと音を立てる袋の中には、プリンだのガトーショコラだの、今夜のお供が入っている。望みのものは手に入ったというのに、ずいとのしかかる疲労感からか私の足取りは重い。
あの後先輩は「そうだありがと!すまん!」と言い残して、何も買わずに大慌てでバス停へ走っていった。
まさか、先輩がいるとは思ってなかった。
だってお腹周り気にしてたし、最近忙しそうだったし、基本仕事終わったらさっさと帰っちゃう人だったし。とにかく、コンビニなんかに寄るとは全く——
——本当に?本当に、そう思っていなかったの?
思考に広がる波紋。思わず足が止まる。
コンビニスイーツが食べたいなら、別のコンビニが家のすぐ側にある。わざわざここの——職場の向かいにあるコンビニを選んだ理由。崩れかけた化粧、傷の増えたパンプス。それらを気にした理由。それに、コンビニに向かう足がやたらと早かった理由は確かに怒りだけではない。
いつも十八時で上がりバスに乗って帰る、ぴしっとしたスーツ姿。いつも見送る、あの人の背中。
見て見ぬ振りを決め込んだ気持ちが、途端に主張を始める。
——うれしい。
自覚してしまったそれは全身に広がり、自身の意思とは裏腹に頬が熱を持つ。それに気づいて、乱暴に歩き出す。
えぇい、認めてしまおう。期待、してた。しかも、ここ三日くらいずっと。コンビニでお菓子を買って、バス待ちの先輩に会えやしないか、なんて。そう、確かに思っていた。
——しばらくぶりに、会えた。
正直、かなり嬉しい。でも、せっかく会えたのに追い返しちゃった。しかも、あんな雑な追い返し方。可愛くもなんともない。
後悔とともに吐いた溜息が夜空にとける。無理に大股で踏み出したはずなのに、ちっとも進んじゃいない。
あの時、「先輩のオススメのスイーツありますか?」とか聞けばよかったのに。そうしたらきっと、あと五分くらいは一緒に居られたかもしれない。もしかしたら、イートインスペースで一緒に食べることもできたかも。いやいや、でもそれはちょっと。だって他の人に見られて勘違いされちゃったら、それは、困る。
でも。でも、もし本当に誘われでもしたら。
私はなんと答えているだろう。
私とあの人の関係は、どう変わるだろう。
歩けども歩けども、思考は、熱は、溢れ出したマグマのように流れ駆け巡っておさまらない。夜風の冷たさも、現在の時刻も、全く気にならない。気にする余裕がない。
——なんていうか、胸がいっぱいだ。
仕方ない、ゆっくり歩こう。予定より五分遅く家に着く、そのくらいの速さで。
バッグを掛け直して、さっきよりものんびりとした速度で歩き出す。街灯の明かりを緩やかに追い越してゆく。
家に着く頃には、スイーツを楽しむくらいの余裕は取り戻しているかもしれない。そうしたらまた、明日のことを考えよう。先輩には、会えるだろうか。会えたら、どんなことを喋ろうか。知らず知らずのうちに頬が緩む。
家まであと、十五分。
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