ごめんね、なんて言わない

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 静かに海風が吹いてきて、思わず麦藁帽を押さえた。子どものころから使っている麦藁帽は、ずいぶんと色あせていた。時間が経つのって早い。  日焼け止めも何もなくノースリーブの白いワンピースで飛び出してきたから、夏の日差しが腕にしみるけれど、この麦藁帽は相変わらず大きなひさしで首から上はしっかりと護ってくれている。  いても立ってもいられなくって飛び出してきたけれど、やっぱり迷いとかいろいろあって、彼の家に着く前に、立ち止まってしまっていた。白いワンピースの汚れも気にせずに防波堤に腰かけて、何となく波の数を数えてみる。ひとつ、ふたつ、みっつ――この波はいったいどこから来たんだろう。はるか遠くからやってきて、こんな港町のぼろぼろの防波堤にぶつかって消えていく。そんなことを考えてみると、なんだか急に淋しくなっていた。  隣に置いた携帯電話が、また鳴っている。さっきから四回目。  ――尚樹のばか。  電話を放置して、また一から、波の数を数えてみた。ひとつ、ふたつ――  明日、引っ越す。  ――なんて。普通、前日に言う?  ずっと同じ時間を過ごしてきた幼馴染に。  明日も明後日も、それからもずっと一緒にいると思っていたのに。  それが当たり前だと思っていたのは、私だけだったの?  尚樹は、身体は大きかったけれど、ちょっと気弱で優柔不断で、「ねえ、どうしよう?」って言うのが口癖だった。私は細身でチビだったけど、即決型で喧嘩っ早くて、私と尚樹はたして割ったらちょうどいいのにって言われていた。でも、私はそんなの絶対にイヤだったけど。だって、私は尚樹みたいに迷うことがイヤだったし、イジイジするのなんかぜんぜん魅力的だって思わないから。  でも、尚樹はいつでも冷静だった。突っ走って、ぶつかったり転びそうになったりする私を呼び止めてくれた。間違った道を走りそうになった私の手を掴んで、正しい道に連れて行ってくれた。足して割られたくなんてなかったけれど、でも、そんな尚樹がそばにいてくれることは、すごく安心した。  そばにいることが当たり前。ずっとそう思っていたけれど、でも、もしかしたらそれは当たり前のことじゃないかもしれない。尚樹に、ずっとそばにいてほしいと思っている自分に気づいたのは、つい昨日、引越しの話をされたとき。尚樹がいなくなることを実感したときだった。  私のそばからいなくなる。  尚樹がどこか、遠くへ行っちゃう。そんなの――イヤだ。  ふわっと、背中を風が撫でていった。あっと思ったとき、私を護ってくれていた麦藁帽が、するりと飛ばされて、波の上にひらひらと落ちていった。  あの麦藁帽。波にさらわれてゆらゆら揺れている麦藁帽。静かに揺れて――そして何度目かの波とともに、消えた。  この光景に見覚えがある――  とたんに、ぐっと息が詰まった。  そう、昔――まだとっても小さかったころ、同じようにあの麦藁帽が風に飛ばされて海に落ちた。それを取りに行こうとして、私は海に飛び込んで、  そして、溺れかけた。  私は立ち上がった。お尻についた砂をぱんぱんとはたいて、防波堤の上を走りだす。あの白いカモメたちを追い越すつもりで走った。  あのとき。溺れかけた私と麦藁帽を、助けてくれたのは尚樹だ。あの麦藁帽は、暑い暑いって駄々をこねていた私の頭に、尚樹が乗っけてくれたものだ。  謝らなくちゃ。尚樹に。  さよなら、なんか言いたくない。淋しくって泣いちゃいそうだったから。  ありがとう、なんか言いたくない。尚樹にそんなこと言うなんて、癪だもん。  ありがとうも、さよならも、あいつの口から聞きたくない。もう一生会えない気がして、そんなのイヤだから!  でも。  ごめんね。  それくらい、言いたい。最後に一言、それだけ。防波堤がもうすぐ途切れる。  ぴょんっと防波堤から歩道に飛び降りたとき、少し先の路地から引越しのトラックが曲がってきた。あれだ。トラックのテールランプを追いかけて、また走る。ガードレールを飛び越えて、車道に残るトラックのタイヤのあとを追いかける。  追いつけないことなんか解ってる。でも、追いかけないわけにはいかない。  海岸沿いの道路には信号なんかなくて、私はトラックにどんどん引き離されていく。足もひざも肺も悲鳴を上げていて、トラックの後ろ姿がどんどんぼやけていって、やがて消えたところで、私はようやく立ち止まった。 「ごめんね――」  私は俯き、小さく呟く―― 「何の《ごめんね》?」  慌てて振り返ると、自転車にまたがった汗だくの尚樹が、息を切らしていた。 「お前、昔から足だけは速いよな。自転車で追いつけないくらいの俊足って――」 「ばかっ!」  私は思いっきり尚樹の頭をはたく。 「いきなり、何だよ?」と目を見開いた尚樹に、「自分で考えて!」と、私はそっぽを向いた。  自転車のスタンドを立てる音が聞こえて、すぐ、尚樹の腕が私の背中の方から、すっと伸びてきた。突然のことで、何がなんなのか解らない私を、尚樹の腕がそっと包み込んで、気づいたら引き寄せられていた。 「ごめんな」尚樹は耳元で言った。 「本当はもっと早くに言おうと思ってたけど、言えなかったんだ。お前と離れたくなかったから。諦め切れなかった――」 「諦める必要なんかないよ。私も、尚樹と離れたくない」  彼の顔は見えなかったけど、驚いていたのが伝わってきた。 「ばか」と小さく私は笑う。私だって、諦められるわけないじゃない。  少しの間、私たちはそのまま動かなかった。  ようやく尚樹は「ありがと」と小さく言って、またちょっとためらうように何度か顔を伏したり上げたりして、  そして、  私の頬に小さな、温かな感触があった。  私が尚樹の腕を振りほどくと、「ごめんね」尚樹はすっと目を逸らし、顔を真っ赤にしてうつむいていた。 私はそれを下から覗き込む。 「ヘタレ!」  ニッと笑って、尚樹の唇に噛み付いた。  ごめんねなんて、もう絶対に言わない。
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