あの日の笑顔

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 のんびりと食事を済ませてから身支度を調える。今日はいつもの着古したスーツではなく礼服。前に作ったスーツもあったのだけれど、優哉に言われて今回は作り直した。以前のものも着るのに特別支障はなかったが、仕上がったものを着たらすごくすっきりとして見えて着心地が良かった。  以前に比べて体型の変化があったことを見抜かれていたようだ。それほど大きな体重の変化があったわけでもないのに、彼の観察眼には驚かされる。 「佐樹さんの髪、柔らかいから一日持たないかもしれないですね」 「うーん、まあ、披露宴が終わるまで持てばいいかな」  洗面台の鏡の中にいる自分が器用な優哉の指先で変化していく。普段髪をいじることなんてないから物珍しさがある。けれど目の前の自分よりも後ろで真面目な顔をしている彼に視線が向いてしまう。  こぼれ落ちそうになる髪の毛をきちりと整えていくその指先にドキドキする。ふいに視線が合って微笑まれると頬が熱くなった。 「うん、いいですよ。男前になりましたね」 「ありがとう、助かったよ。不器用だからこういうのほんと駄目でさ」 「そのままでも十分ですけど、たまにはね」  ワックスで汚れた手を洗いながら優哉は後ろからこめかみにキスをしてくる。なにもこの体勢のままで、と思うけれど文句は出てこない。後ろに立つ彼はいつもより三割、いや五割増しくらい格好いい。  僕のパターンオーダーのスーツと違い彼のスーツはフルオーダーだ。長い手足を包むそれはシンプルなブラックなのに華やかに見えるのはなぜだろう。髪の毛だってそんなにすごく手を加えていると言うほどでもないのに、ちょっと眩しい。 「ゆ、優哉、あんまりくっつくと、髪が」 「すみません、あまりに素敵だから」 「……そういうの、恥ずかしいからやめろ」  楽しそうに目を細められて顔がますます熱くなる。駄目だな、やっぱり。優哉が傍にいると嬉しいのにそわそわしてしまう。慣れるのかなこれ。でも慣れてドキドキしないのも嫌だな。  いや、ドキドキしないとかあり得ないな。だってこんなに格好いい――なんて考えていたら鏡越しにしっかりと目が合った。 「なにぐるぐるしてるんですか? 可愛い」  漫画とかだったらきっと僕の頭からは蒸気機関車みたいに湯気が出ている。いたたまれない気持ちになり目を伏せたら、小さく笑った優哉は背中から離れていった。振り返ると視線を合わせてにこりと微笑む。  そしてそっと手を握られて、家の中で、と思うもののやはり文句は出てこない。そしてリビングに戻り壁掛け時計を見るとだいぶいい時間になっていた。 「もうそろそろ出るか?」 「そうですね。いまから出ればちょうどいいかもしれませんね」 「じゃあ、行くか」 「そうしましょう」  リビングのテーブルに並べておいた持ち物を一つずつポケットにしまい、腕時計をはめて後ろを向くとコートを広げた優哉が待っている。手渡してくれるだけでいいのに、と思いながらも至れり尽くせりを素直に受け取って腕を通す。  肩をぽんぽんと叩かれてなんとなく背中がしゃんと伸びる。けれどスーツだけでも男前さがやばかったのに、ロングコートを身にまとった紳士然とした優哉に口元が緩んだ。思わず携帯電話を構えたら、不思議そうに首を傾げられてしまった。 「佐樹さん?」 「なんでもない」 「え? なんでもなくないですよね?」  無言のままシャッターを切ったけれど、戸惑っている優哉も存分にいい男だった。いそいそと写真を保存するとまたニヤリと口角が上がる。いまの彼はまだ写真が一枚もなかった。記念の一枚的な気分だ。  高校時代の写真は山とあるけれど、これから先の写真もたくさん増やしていきたいな。それほどあちこちと出掛けられるわけではないから、日常的にこういうタイミングを生かしていこう。 「よし! 行くか」 「まあ、なにか楽しそうなのでいいですけど」  勝手に自己完結している僕に少し困ったような顔をされる。けれどそれ以上はなにも言う気はないのか、玄関に向かう僕のあとを黙ってついてくる。
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