あの日の笑顔

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 外へ出ると一瞬冷たい風が吹き抜けて少しばかり身体が震えてしまった。それでもぎゅっと手を握られるとその温かさにほっと息をつく。 「そういえば、二次会の予定はいつから決まってたんだ?」  マンションから駅まで徒歩五分とかからない。電車に乗り込むとあと三十分ほど揺られれば目的地に着く。空いた座席に腰かければカタンカタンと音を立てて進み出す。しばらくぼんやりしていたけれど、ふと隣に座る優哉へ視線を向けた。 「え? ああ、話自体を持ちかけられたのは半年くらい前ですね。店を探しているんだけどいいところはないかと聞かれて、最初は別のところを紹介するつもりでいたんですけど」 「お前が戻って来ることになって店で働くって話が上がったの、わりと最近だよな?」 「ええ、そうなんです。こっちに戻ってくるほんとに少し前ですね。じゃあ、そこでやるから店を空けろって言われて、先に紹介したところはキャンセルしました」  なんとも言えない苦笑いを浮かべる優哉に僕まで苦笑してしまう。しかし思い立ったら即行動というところがある彼女からは想像が容易い返答だ。けれどどうせなら幼馴染みの店で、と思う気持ちもわからなくはない。 「でもいい機会でした。内装の着工前に話が決まったので色々設備とか手を加えられたので」 「そっか、これからもパーティーとかで店を使ってもらえるといいよな」 「ええ、そうなんです」  半月ほど前にオープンした優哉の店は滑り出しはわりと好調のようだ。町の商店街がとても友好的で店の宣伝に一役買ってくれているらしく、人づてに訪れてくれる人が多いと聞いている。  ああいう小さなレストランは町に馴染むことがなによりも大切だと思う。それが第一歩からできているのなら、きっといい波に乗れるのではないだろうか。 「年末は忙しいからあんまり店に行けないけど。僕もまたゆっくりあそこでご飯が食べたいな」 「いつでも待ってますよ」 「うん、もう少ししたら冬休みにも入るしちょっとくらいは時間できるかな」 「先生って職業は目に見えているよりもずっと忙しいですよね」 「そうだなぁ、でもまあ、その分やり甲斐もあるし。楽しんでいるところもあるから」  とは言え年末二十九日くらいまで事務仕事も補習もあったりして冬休みになっても学校に出勤するのは当たり前なところもある。でも年末年始は一週間くらい休みがあるので、優哉と過ごす時間は増えそうだ。  お店は三十日まで営業していると言っていたが、年明けは五日くらいまで休みにするとも言っていた気がする。唯一二人でゆっくり過ごせる長期休暇だ。せっかくだから実家にでも帰ろうか。 「あ、佐樹さん。冬休みに里帰りしませんか? まだお母さんにちゃんと挨拶もしていませんでしたし、……佐樹さん?」 「……あ、いや、なんでもない。そうだな」  相変わらず彼はエスパーのようだ。どうして僕の考えていることがわかるんだろう。けれど思わず驚いて固まってしまった僕の反応に目を瞬かせる優哉は、深く考えての発言とも取れない。  これはなんとなく考えることが似てきたと言うことなのかもしれない。いまこうして傍にいる時間はこれまでのどんな時間よりも長い。一緒に暮らすってそういえばこういう感じだったな、と少しばかり懐かしくなった。 「一緒にいられるのって、いいな」 「……そうですね。とても幸せです」  ぽつりと呟いた僕の言葉にひどく優しい笑みを浮かべた恋人に、胸がきゅっと締めつけられる。けれどそれは切なさではなくて、愛おしさだろう。噛みしめるように返事をした、彼のその言葉は心に染み込んでくる。  そっと肩を寄り添わせて歩く、それだけのことさえも待ち焦がれた幸せの日々だ。些細な日常が当たり前になりすぎてしまわないように、毎日を大切に過ごしていきたい。隣にいてくれることは当然なのではないと忘れずにいたい、そうしみじみと思った。
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