始まりの日

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「どれも美味しいからつい食べちゃうよ」 「いいね、嬉しいね。あ、優哉はしばらくはみんなに捕まってるだろうから、待っててな」 「うん、今日の主役だからな」  エリオが向けた視線の先を見つめれば、優哉が来客たちに囲まれていた。一人一人に声をかけて歩いているので、そこかしこで立ち止まり引き留められている。けれど今日はこの日の主役だから、僕はこうして隅のほうで彼を眺めているだけで満足だ。 「おっと、あそこがもう空だ。じゃあ、ゆっくりして行ってくれよ」 「ありがとう」  賑やかな人波を縫って歩いて行くエリオの後ろ姿を見送ると、僕はぐるりと店の中を見回した。見知った顔を見つけるものの、みんな楽しげに談笑しているので割り入る気にはならなかった。お腹はだいぶふくれたし、もう一通り食べたような気もする。 「あ、西岡さん」  どうしようかと視線を巡らしていたら目の前で立ち止まる人がいる。顔を上げてみると、そこには僕よりも頭ひとつ分は高いだろう背丈の男の人が立っていた。人の好さそうな笑みを浮かべる彼は一度会っただけだが覚えがある。優哉のバイト先で一緒に働いていた人だ。 「三木さん」 「よかったー。覚えていてくれたんだ!」  至極嬉しそうに声を弾ませる彼は、まるで花が咲いたみたいに周りが明るくなる人だ。バイトをしていた頃にいろんな相談に乗ってくれた一番気安い先輩だと優哉は言っていた。いまも彼はタン・カルムというレストランで働いているようだ。少し強面の料理長の右腕としてきっと頑張っているのだろう。 「久我さんはいま優哉くんと話しているよ」  くだんの料理長を視線で探していたら、三木さんは後ろを指さし教えてくれた。優哉の隣で難しい表情をして話をしている年配の男性、そうだあの人が優哉が料理の道を目指すきっかけになった人だ。 「あんな怖い顔をしてるけど、あれでもいますごく機嫌がいい顔なんだよ」  口元に手を当てて笑いをこらえるような仕草をすると、三木さんは久我さんをまた指さした。どう見ても気難しい顔をしているようにしか見えないが、長年一緒にいる三木さんには違った顔に見えるようだ。きっと久我さんの表情は三木さんくらいしかわからないのではないかと思った。 「作る料理は違っても同じ料理人の道を歩いてくれることが嬉しいみたい。優哉くんが自分の店を持つって話を聞いた日はものすごく機嫌よかったんだから」 「そうなのか。優哉もとても恩があるって言ってたな」 「久我さんは優哉くんを孫のように可愛がってたからね」  隣に立つ優哉はすごく嬉しそうな表情を浮かべている。背中を追いかけていた人に喜んでもらえて、いまきっとすごく幸せに違いない。そしてそんな姿を見ている僕もまたすごく幸せだ。彼が笑っていると僕も笑顔になれるし、幸せを感じていれば僕もまた同じ気持ちになる。  今日は彼にとっていろんなことが始まる日だ。店をオープンさせることが一番の始まりだけれど、みんなを笑顔にさせること、師を超えていくこと、それも彼の始まりではないだろうか。 「あ、三木さん。久我さんがこっちを見てるけど」 「あれは呼んでる顔だ。バタバタしてごめんね。俺、行きます」 「うん、最後まで楽しんでいって」  慌ただしく人波を抜けていく三木さんは遠くに行ってもその背の高さでよく目立つ。そして久我さんに渋い顔をされながら笑うその顔はとても朗らかだった。 「みんな楽しそうだな」  美味しい料理を前にしてみんなが笑顔になり、いつしかこの空間にあふれんばかりの幸せが満ちている。それがなによりも嬉しく思えた。少しずつ優哉の未来が輝いていくようで、誇らしい気持ちにもなる。  今日という日はきっと僕にとっても思い出になるだろう。それを思うだけで気持ちが大きく膨らむような気がした。
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