始まりの日

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 シャンパンを二杯も空けて四、五十分近くをこらえたのは我ながら頑張ったと思う。酔いで天井がぐるぐると回るけれど、それでも後悔はしていない。優哉のいろんな話を聞けた。男性は顔が広いのかいろんな人が集まってきて、ほかにも店に携わった人たちの話を聞くことができたのだ。それだけで時間は無駄ではなかったと思える。 「佐樹さん、大丈夫?」  ぐらつく頭と響くような頭の痛みに顔をしかめたら、額にひんやりとした優しい手が触れた。その心地いい感触に思わず息をついてしまう。閉じていた目を開くと僕の顔をのぞき込む優哉の姿が見えた。 「うん、大丈夫だ。まだちょっと頭がぐらつくけどもう少しすればマシになる」 「無理はしないでくださいね」 「ああ、もう片付け終わったのか?」  僕が横になっているのは店の二階にある事務所のソファだ。酔っ払って動けなくなった僕を優哉がここまで運んでくれたようだ。後片付けや明日の準備もあるというのに、余計な手間をかけさせてしまった。これだけはいま反省している。 「さっき二人に上がってもらったところです」 「そうなのか、気づかなかった」  店の二階は事務所のほかに一角を更衣室として使っている。けれど二階にエリオや日笠さんが来たのは気がつかなかった。二人にも迷惑をかけたし、今度顔を合わせる時に謝ろう。 「もう帰れるなら帰ろうか」 「まだ横になっていて大丈夫ですよ。これからタクシーを呼びますから」  身体を起こそうとしたらそっと肩を押し止められた。目を瞬かせて優哉を見るとやんわりと笑みを返される。そういえばいまは何時になったのだろう。月明かりが窓から射し込むだけの室内は半分くらいは闇に隠れている。僕が眠っているから明かりはつけずにいてくれたのだろうか。 「悪かった。結局迷惑かけちゃったな」 「俺も飲んでるとは気づかなくて、すみません」 「いや、これは自己責任だ。気にするな」  向こうはそれをアルコールとは知らずに勧めてくれたのだ。僕が無理して飲まなければこうはならなかった。やはり配慮にかけていたのは僕だろう。 「あんまり無茶しないでくださいね。びっくりして心臓が止まりそうだった」 「うん、悪い」 「顔色、少しよくなりましたね」  長い綺麗な指先がさらさらと僕の髪を撫で梳くのが気持ちがいい。思わずうっとりと目を細めたら、ふいに近づいた優哉の唇が僕のそれに重なる。心が温かくなるような優しい口づけを与えられて、頭に響いていた痛みが少し和らいだような気がした。 「優哉」 「なんですか?」 「うん、今日は楽しかったよ。みんなの笑顔が見られて幸せな気持ちになった」 「そうですか。それはよかった」  僕の言葉に優哉は至極嬉しそうに笑う。その笑顔はどこか晴れやかで、彼自身もきっと満足いく一日だったんじゃないだろうか。今日店に訪れた人たちは身内ばかりだったけれど、あそこで見た笑顔は嘘偽りないまっすぐな感情だ。  店の名前の通りに幸せを与えることができた、そんな風に思うのは間違いじゃない気がする。みんな本当に幸せそうに優哉の料理を食べていた。エリオや日笠さんが忙しく走り回ってしまうくらいにだ。  あの日の夢が現実に変わり、少しずつそれは確かな形になった。目の前に広がる未来がとても眩しくて、そこに立つ優哉を見ていると胸がいっぱいになる。一人きりで戦っていた以前の優哉はもうそこにはいなくて、いまはたくさんの笑顔が彼の周りにあふれている。それがひどく嬉しかった。 「明日からまた大変だろうけど、お前ならきっと大丈夫だって信じてる」 「ありがとうございます。もうここは俺一人だけの場所じゃないから、この場所をなくさないように頑張ります」 「うん、エリオも日笠さんもいる。頑張らないとな」  頼れる仲間もいて、お店はこれ以上ないくらいに完璧なんじゃないかと思う。あとはどれくらいの人が足を運んでくれるか、それだけだ。最初から順風満帆とは行かないかもしれないけれど、誰かの心に残る場所になればいいなと思う。そしてなにより優哉が笑顔でいられればいい。 「いま、お前の傍にいられることがすごく嬉しいよ」  旅立つ前は傷つきやすい脆さがあったけれど、離れているあいだに彼はとても強くなった。自分の意志をちゃんと持ち、それを諦めない心を持っている。だからこの先の道も明るく開けている気がした。 「俺も、あなたの傍にいられることがすごく幸せです。またこうしてあなたに触れることができる。それだけですべてに感謝したくなる。佐樹さん、待っててくれてありがとう」  そっと伸ばされた手に優しく頬を撫でられた。その手に自分の手を重ねてゆっくりと目を閉じると、ぬくもりがじわりと胸に広がるようでひどく安心できる。
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