約束

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 四月の始め――その日は本当なら午前中に予定を済ませて、夜までゆっくりと家で過ごすつもりだった。けれど朝一番にかかってきた電話でその予定は大きく覆されてしまう。  人の休みをしっかりと見計らっているその電話の主に、ありったけの恨み言を言ったがそんなことか通じる相手ではない。よくわからない曖昧な言葉で話を流されて、向こうの都合のいいように動かされる。 「なんだ優哉、まだふて腐れてるのか?」  今日は水曜で店の定休日だ。しかし電話で呼び出されて店の鍵を開けたのは、普段とほとんど変わらない時間だった。  不機嫌さを隠さずイライラとしたまま口を引き結んでいたら、のんびりとした足取りで男が一人近づいてくる。すらりと背の高い、黒縁眼鏡をかけたその男――幸村浩介は、甘い顔立ちもさることながら、雰囲気にも華やかさがあり人目を引く。  見慣れているであろう身近な人間でさえ、浩介がやってくると皆その姿を嬉しそうに振り返る。色めき立った女たちの視線に目配せしながらも、やつはまっすぐとこちらへやってきた。 「笑えとは言わないけど、ちょっとはその眉間のしわなんとかしてくれよ」  小さな子供を相手にするかのような声音に、傍にやって来た浩介を思いきり睨み付けてしまった。けれどそんな俺の視線などものともせずにやつは肩をすくめて笑うばかりだ。  ひどく子供扱いされているこの状況にますます苛立ちが募るが、こうしてカリカリとして余裕のなさそうにしているところが余計にそう思われる原因なのかもしれない。  浩介の手の内で転がされるのは癪だが、このまま子供のようにあしらわれるのも嫌で大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。 「お、ようやっと落ち着いたか。よしよし、それじゃあ始めさせてもらおうか」 「次からこういうことは当日に持ってくるのはやめてくれないか」 「ん、ああ、悪いな。こっちも急に穴を開けられて焦ってたんだ。ここ最近の新しい店でほかでも取り上げられていないところなんてそうなくてな。思い浮かんだのがお前んとこくらいだったからさ」 「どこかほかの雑誌に取られたのか?」  少しばかり苦い顔をして肩をすくめた浩介に首を傾げると、大げさなくらい大きなため息をついた。  この男は飲食系の情報雑誌を手がける編集長だ。確か去年新しくできた雑誌で、刊行以来ずっと雑誌の売り上げもよくなかなか評判がいいと聞く。紙ものの雑誌が廃れていく中でそれはなかなかの快挙だろう。 「ページ割いて特集を組んでもらうんだとよ。もっといい条件をつけてくれるなら受けてもいいって言ってきたから、こっちから断った」 「ふぅん、話題になるような店だったんじゃないのか」 「まあな、去年オープンしてから店の評判もいいし、いま口コミでもかなり広がってる。予約もなかなか取れない人気店だ」 「でも、お前の中でなにか気に入らないことがあったわけだ」  理知的で穏やかそうな顔立ちをしているが、幸村浩介という男は好き嫌いがはっきりとしている。ごますりやおべっかが嫌いで、案外他人に容赦ないところもある。媚びへつらうくらいなら、余計なものは切り捨てるという男だ。 「店はいいけどオーナーが気に入らない。プライド高くて鼻につく野郎だ。上からの紹介じゃなかったら俺は受けなかったな。大体取材スタッフは女がいいとか言う時点でふざけんなって話だろ。うちはキャバクラじゃないんだよ」 「ああ、それで今日はこういうメンバーなんだな」  店に浩介たちがやって来てからなんとなく違和感はあった。カメラマンを筆頭にやって来たスタッフ四人すべて女性だったからだ。  開けられた穴をそのまま埋めるため、スタッフの変更も利かなかったのだろう。わざわざ編集長直々のお出ましになるくらいだったのだから、会社としては大きな企画だったのかもしれない。 「うちはあんまり客が増えすぎても困るんだけどな」  店はいつも三人で回している。客席もさほど多いわけではないから、下手に来客が増えても捌ききれないだろう。それに客を待たせて、時間で急かすような接客はできるならしたくない。 「まあ、その辺はうまく書いておく。迷惑はかけない」 「あれ、じゃあ橘さんを撮るのも駄目って感じです?」 「え?」  ふいに会話に混じる声に振り向けば、すぐ傍にカメラを片手にした女性が立っていた。こちらの視線に気づくと彼女はにんまりと笑みを浮かべる。そしてさりげなくカメラを構えてシャッターを切った。 「おい、勝手に撮るな。今回はなしだ」 「あー、やっぱり? ですよね。橘さんは顔出ししたらわんさかお客さんが来ちゃいますもんね。あー、でももったいない。こんなにいい被写体を前にして撮れないなんて」 「それより夏美、店の写真はちゃんと撮れたのか?」 「任せてください。ばっちりですよ。お店もとても素敵ですね」  呆れたような眼差しを向けられながらも満面の笑みを返す彼女は、実にさっぱりとした性格だ。浩介とも付き合いが長いのだと最初に挨拶された時に言っていた。顔立ちは少しきつそうにも見えるが、美人の部類に入るだろう。  今日集まったスタッフはそれぞれタイプはあるが、顔立ちが皆整っている。  姉御肌のカメラマン木元夏美。その助手として手伝っているおっとり妹系の児玉春代。元気の有り余ってるインタビュー記者の宮木多美子。それをまとめるクールなライターの五条由貴。  おそらくそれは意図して選出されたのだろう。しかし浩介は顔だけいいのを集めて満足するような男ではない。各々分野において仕事ができる人間に違いない。
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