約束

4/15

225人が本棚に入れています
本棚に追加
/81ページ
 もっと周りを見渡せと、あの人が言った言葉の意味がいまならよくわかる。俺はこの世界に一人きりで立っているわけではないのだ。いまも昔も俺は人に恵まれている。  そして人間というものは日々の中で少しずつ成長しているものなのか。あんなに苦手だった人の輪に入ることが、いまではそんなに嫌ではなくなった。その大きな進歩には自分でも驚く。でも素直に人と笑い合える自分は悪くはないとも思う。  他人の気持ちを前よりも考えられるようになって、その分だけ自分の気持ちも伝わるようになった。  これはたぶん向こうにいた時に鍛えられた部分だろう。みんな感情がまっすぐで回りくどいことが嫌いだった。だから彼らは俺がためらいを見せれば真正面からぶつかってくる。そして感情を表に出すことは恥ずかしいことではないと教えてくれた。  おかげで随分と人との付き合い方を学んだ気がする。 「よーし、そろそろ撤収するか」 「お疲れ様でーす!」  一通りの作業が済んだのか浩介は両手を打ってスタッフの視線を集める。そしてそれに応えるようにその場にいる全員が声を上げた。朝から随分と時間が経ち、もう時刻は昼を過ぎている。思っていたよりも時間が経っていて、少し驚いてしまった。 「編集長! 私おいしいもの食べたいです! オムライスとか! パスタとか! デザート付きだとなおいいです!」 「えー、あたしはハンバーグがいい。珈琲飲んでゆっくりしたいです」 「お前ら、バラバラと適当にあげるな」  片付けが終わった途端に多美子が勢い込んで浩介に詰め寄った。そしてそれに夏美が加わり、各々好きなものをあげてさらにぐいぐいと前のめりになる。どうやら昼飯は経費で落ちるようだ。  しかし浮き立っている二人とは対照的に、残りの春代と由貴は恨めしそうな目を向けていた。 「夏美さんと多美子ちゃんいいなぁ。私たちこのあと次の仕事があるんで」 「私もおいしいもの食べたかったですー」 「じゃあ、由貴ちゃんと春代の分も食べておくわね」  しょんぼりとうな垂れた二人に夏美はあっけらかんとして楽しげに笑った。その様子に春代も由貴も大げさに嘆いてみせる。 「わーん、夏美さん鬼ー!」 「はあ、残念すぎる。……編集長、おやつごちそうさまでした。春代ちゃん行くよ」  仕事の時間が差し迫っているのか、由貴は時計を気にしながら春代を急かした。未練たらたらな顔をしていた彼女はその声に渋々といった様子で由貴の元へ足を向ける。ひらひらと同僚に手を振られれば、二人はこちらに向かって会釈をしながら慌ただしく去って行った。 「編集長! ごはんごはん!」 「あー、わかったわかった。いま調べるから待ってろ」  人が二人も減ったというのに賑やかさはまったく変わらない。期待のこもった眼差しで多美子は浩介の周りをウロウロしていた。その様子を見ている夏美もそわそわしながら目を輝かせている。  忙しないその様子に呆れながらも、浩介は携帯電話を取り出した。しばらくぼんやりとその様子を眺めていたが、ふいに思い立ち俺は片手をあげる。 「さっきの全部食べられるとこ駅前にあるけど」 「マジで! 橘さんナイス!」 「橘さん! お願い電話して!」  一分の乱れもなく振り返った多美子と夏美の勢いに少しばかり気圧された。さすがにこういう時ばかりは色気より食い気か。鼻息荒く目をキラキラとさせる二人に思わず顔が引きつってしまった。  怯んで逃げ腰になった俺の心情が伝わったのか、苦笑した浩介がこちらへ視線を寄こす。その視線に応えて携帯電話を取り出すと、俺は馴染みの洋食屋に電話をかけた。 「四人いけるか?」 「ああ、まだ大丈夫だって」  駅からほど近い場所に四十年以上も夫婦二人で営んでいる洋食屋がある。町の人に長く愛されている店だ。いまは平日の十二時から十八時までしか営業していない。  昼になれば近所の人で賑わう店だが、今日はまだ余裕があるようだった。これから行くことを伝えれば二つ返事で応えてくれた。 「なんだ、閉めてしまうのか」 「来年には閉めるらしい」 「そうか、お前が勧める店なら間違いないって思ったのに、取材できなくて残念だ」  みんなには惜しまれていたが、二人とももう七十に近いから残りの老後をゆっくり過ごすのだと言っていた。あとは頼むよ、なんて言われたけど、あの親しみ深い店にはまだまだ遠く及ばない。  でもあの店が続いたのと同じくらい自分の店も長く続けられたらいいなとは思う。この町はと聞かれたら、うちの店を思い出してもらえるくらいになれたらいい。 「やあ、優哉くん。今日は取材だったんだって? いい宣伝になるといいね」 「またご飯食べに行くからあかりちゃんたちにもよろしくね」  店から十分ほどで駅前に着く。そこから商店街にある洋食屋を目指すと、その先々で声をかけられた。馴染みのあるその顔ぶれに返事をしながら歩けば、そのほとんどが浩介にも同じ反応を見せる。  どうやら浩介は商店街のほとんどに声かけて歩いたらしく、皆その顔を見ると満面の笑みを浮かべた。今日知り合ったばかりとは思えないほどの友好的な態度に、少しばかり驚いてしまう。  仕事の一環なのかもしれないが、この抜きん出た社交性はなかなか真似できるものではない。 「可愛いお店ですねー」 「こういう店っていいわね」  店の前にたどり着くと多美子と夏美の目が再び輝き出した。白い外壁に赤と白のストライプのテント屋根。木枠の扉と窓が二つ並んだそこは、古めかしさをあまり感じさせないこぢんまりとした小綺麗な店だ。  けれど中に入ると狭さはまったく感じない。六席あるテーブルとカウンターはすでに半分ほど埋まっていた。いらっしゃいませと優しい声が響くと、オープンキッチンから店主の六郎さんが和やかな笑みを向けてくれる。
/81ページ

最初のコメントを投稿しよう!

225人が本棚に入れています
本棚に追加