約束

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 四人で和やかに食事をしたあと、浩介たちは会社に戻ると言うので駅前まで見送りそこで別れた。時計を見れば時刻は十三時を回っている。さてどうしようかと考えて、今日の予定を思い出す。  店で使っている珈琲豆。それを扱っているところに、新しい商品が増えたのでどうだろうかと話をもらっていた。今日その店に行こうと思っていたのだった。時間は特別指定していなかったが、これから行くことを伝えようと携帯電話を取り出す。  しかし電話帳で連絡先を開こうとしたところで着信を告げるメロディが流れた。登録してある番号からの着信ではなかったが、なんとなく心当たりがあったので迷わず出た。相手は穏やかな声音の女性で、用件は予想していた通りだった。 「ありがとうございます。今日中に受け取りに行くのでよろしくお願いします」 「では、お越しをお待ちしております」  丁寧な声を聞き、電話を切ってからふと思いついたようにメッセンジャーアプリを開く。そしていまごろは仕事中だろう佐樹さんに向けて食事の誘いをしてみた。すると返事が来るのはまだあとかと思っていたのに、メッセージはすぐ既読になる。  普段からそれほど携帯電話を触っているような人ではないので、たまたま携帯を開いていたのだろう。しばらくすると着信音が響く。 「もしもし、どうしたんですか?」 「ああ、うん」 「今日は忙しいですか? もし無理なら構いませんよ」 「いや、行けないわけじゃないんだけど」  なんとなく歯切れの悪い返事に首を傾げてしまう。いつもなら予定があればあると言ってくれるのに、それとはまた違った雰囲気だ。なにやら電話口の向こうで悩んでいるような感じがする。小さく唸るその声を聞きながら返事を待っていると、ためらいがちに言葉を紡いだ。 「ちょっと約束があって行かなくちゃいけない場所があるんだけど」 「先の約束を優先してくれていいですよ」 「んー、お前も行く?」 「え? 俺が行っても問題ないんですか?」  思いがけない言葉が返ってきて、少し戸惑ってしまった。けれど彼はまた小さく唸りながらも問題はないと言う。どうしようかと悩んだが、佐樹さんからこんなことを言い出すくらいだから、なにか理由があるのだろう。たぶんこれはついて行ったほうがいい。 「じゃあ、駅に十八時でいいか?」 「大丈夫です」 「うん、じゃあ、またあとでな」  彼からの着信が途切れるとポケットに入れていたカードを取り出す。いつでもいいと言う言葉に甘えて、遠慮なく利用させてもらうことにした。彼と外で食事するのはいつでも大丈夫というわけでもない。  自分が休みでも彼の仕事が遅い日も多くある。いまは春休みだけど、新学期を控えてなにかと忙しい時期だろう。思い立った時が吉日だ。すぐさま電話をかけて予約を取り付ける。  約束の時間までまだ余裕はあるが、予定は早めに済ませてしまおうと足早に駅の中へと足を進めた。  隣駅にある珈琲専門店に向かえば、話し好きな店主は俺を待ちかねていたようだった。新しい珈琲をいくつか試飲をさせてもらい、あれこれと話を聞いてブレンドを新しいものに切り替えることに決めた。  店ではモカとブレンドを出しているが、ここの珈琲はうちでも評判が良くて、いつも仕入れ先を聞かれる。その伝でやってくる人も多いようで、客足が伸びたと礼を言われることも多い。 「これ、少し多めに入れてもらっていいですか。佐樹さんが好きそうだから家の分も欲しいです」 「そうかい、佐樹くんの口に合うといいな。そういえば彼の好きな洋菓子屋の新作が、すごくおいしかったってうちの奥さんが言ってたよ。お土産にしてあげたら?」 「そうなんですか。じゃあ、来週にでも寄ってみます」 「あ、今夜はもしかして出掛けるのかい?」 「久しぶりに外で食事でもしようかと思って」 「そうか、それはいいね。たまにはゆっくり楽しんでおいで。じゃあ、明日の午後には納品できるように手配しておくよ」  にこにこと穏やかな笑みを浮かべる店主は、言葉にして伝えてはいないが俺と佐樹さんの関係については気づいているようだった。それでも出会った時と変わらない付き合いをしてくれる。  いつも自分の周りは否定的な人が少ないから忘れがちになるが、こういうことに関しては本当に周りの人たちに感謝をしなければと思う。彼らのおかげであの人を悲しませることにならずに済んでいる。 「そういえば奥さんは順調ですか?」 「うん、つわりがなくなったらなんだか元気が有り余ってるみたいで、いまも近所のお店に配達に行っちゃった。女の人はすごいねぇ。僕は心配でヒヤヒヤしてるんだけど」 「そうなんですか。もうだいぶお腹が大きかったですよね。でも待ち遠しいですね」 「待ち遠しいよ。もう名前も決めてあるんだ」  ふやけたような笑みを浮かべて店主は至極幸せそうな顔をする。子供ができたと知った時も大層喜んでいたが、日ごとにその気持ちが大きくなっているようだ。いつも二人は仲睦まじい様子で、見ているこっちまで笑みが移ってしまいそうになる。  相手だけじゃなく傍にいる人にまで幸せを分け与えられる関係はいいなと思う。佐樹さんともそういう関係が築けたらいいな、なんて考えてしまった。  しかしまずそのために俺は、少し気の短いところを改善しなければならないだろう。まだまだ大人になりきれなくて、すぐに苛ついてしまう。  なるべくあの人の前ではそれを出さないようにはしているけど、なかなかそれを改めるのが難しい。元来の性格によるものだからかもしれないが。 「それじゃあ、よろしくお願いします」 「うん、任せて。長いこと引き留めてごめんね。いってらっしゃい」  のんびりと振られた手に会釈を返して、長居した店をあとにする。時間はだいぶ過ぎてもう少しで十五時になるところだ。道すがら出先から帰った奥さんに会い、挨拶を交わしてまた駅へと向かった。  次に向かう場所はここから三十分くらいだろうか。用事を済ませて待ち合わせの駅へ向かってもだいぶ余裕がありそうだ。だが時間が余ったらとりあえずどこかのカフェで暇を潰せばいいかと電車に乗り込んだ。
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