約束

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 そこに降り立ったのは随分と久しぶりだった。改札口から見える景色は以前と大きく変わっているところはなく、なんとなく時間が急に巻き戻されたような気分になる。何年も毎日ずっと通り過ぎていた場所を見渡しながら、彼の背中を追って改札を抜けた。 「ここに来るのは久しぶりか?」 「はい、向こうに行くために家を出た時以来ですね」 「そっか、じゃあ五年くらい経つな」  こちらの様子を窺うように振り返った彼の表情はひどく優しかった。昔を思い出し嫌な思いをしていないかと気にしているようにも見える。そうか、あれから五年も過ぎたのかと、彼の言葉に時間の流れを感じた。  あの頃に過ごした五年は随分と長く感じたが、そこから抜け出してからの時間は想像以上に早かったと思う。いまだからこんな風になんの引っかかりもなく昔のことを考えられるのかもしれない。あのままこの場所に残っていたらこんな気持ちにはならなかっただろう。  俺は運が良い。最悪な状況だった俺の前に現れた時雨は、しがらみを解いて先に進む道を与えてくれた。踏み切れずにずっともがいていた俺の背中を、佐樹さんは迷わず強く押してくれた。  いつだって俺は誰かの手にすくい上げられる。一歩踏み出し、振り返った時に彼らは優しく笑ってくれるのだ。 「なんだか優哉とこの町を一緒に歩くって変な感じがする。あの時はそんなこと想像もしていなかった」  どこか懐かしむような横顔を思わず見つめてしまう。二人でこの町を歩くのは彼が言う通り初めてだ。それどころか彼がここへ来たことがあるだなんて俺は知らなかった。あまりにもじっと見過ぎたからなのか、佐樹さんは少し目を瞬かせてこちらを見上げる。  小さく首を傾げる仕草は俺の視線の意味を考えているのか。 「あれ? 言わなかったか? お前がいなくなった時、一度お前の家に行ったんだ」 「え? そうだったんですか?」 「うん、いないだろうとは思ったんだけど。どうしても行って確かめたくなって」  驚きをあらわにした俺に、苦笑いを浮かべて彼は肩をすくめた。その表情に俺は思わずはっと息を飲んだ。  佐樹さんが俺を迎えに来てくれたあの日から俺が旅立つまでの三ヶ月半は、ひどくめまぐるしくて、二人で会える時間が一分でも一秒でも長くなるように隙間を縫うように過ごした。  彼の傍にいる時は離れることを惜しむように抱きしめて、キスをして、愛を囁いて。それまでの出来事をゆっくりと振り返る余裕さえなかった。  でもあの日々の中で佐樹さんがどんな思いをしていたのか、それをちゃんと知ることをしていなかったなんて、いま考えるとなんて薄情なんだろうと思える。自分を見失ってそれを考えるだけの力がなかったとは言え、たった一人置いて行かれた彼はどれほど不安だっただろう。 「佐樹さん」 「どうしたそんな顔して。お前はすぐそんな顔をする。いいんだよ。余計なことは考えなくて。お前はずっと僕の隣で笑っていてくれればいいんだ」  そっと伸ばされた手が俺の手のひらに重なる。指を絡めてぎゅっと強く握られて、胸が痛いくらいに締めつけられてしまう。優しく笑う彼に隙間を奪うように引き寄せられれば、込み上がってきた感情に少し喉がヒリヒリする。  傍で寄り添うこの人が愛しくて愛しくて、繋がった手を強く引いて目の前の身体を抱きしめた。俺はどれだけの想いを捧げたら彼の愛に報いることができるのだろう。 「なんでそんなに俺を甘やかすの」 「お前が笑ってるのを見るのが一番好きだからだ。それだけで幸せだなって思えるんだよ」 「俺といて幸せですか?」 「もちろん、いますごく僕は幸せだ」  本当に眩しいくらいの笑顔で答えるから、目の前が少しぼやけてしまった。そんな俺に困ったように笑って、佐樹さんは優しく頬を撫でてくれる。なだめるように労るように指先で触れられて、想いがこぼれ落ちそうになった。 「それよりも僕は、いまお前に怒られないかなって少し心配なんだ」 「それはどういう意味ですか?」 「うん、ついたらわかる」  少し悪戯っ子のような目で見上げてくる彼に首を傾げてしまう。佐樹さんは一体どこに俺を連れて行こうとしているのだろう。細められた瞳を見つめ返すが、小さく笑ってはぐらかされた。  俺が彼を怒るようなことなんて想像もつかない。しかしいまは先を急ぐように引かれた手に黙ってついて行くしかないだろう。 「もう少し、あの角だよ」  道の先を指さされて視線をそちらに向ける。通りは日も暮れて外灯に照らされていた。この辺りまではあまり来たことがないのでよくわからないが、たぶんここは住宅街の真ん中だ。  けれどその先には一階が店舗になっているマンションがあった。近づいていくとそれはどうやらカフェらしい。オレンジ色の明かりがついたそこはベーカリーカフェと看板が出ている。  のんびりとした足取りで歩く彼はまっすぐにその方向へ向かって行く。 「あ、こっち」 「地下?」  カフェの前まで行くが、そこに入ることはせずにさらに足を進める。マンションの左手には下り階段があった。どうやら目的の場所はそちらのようだ。立て看板にはCrepuscule(クレプスキュール)と店名が綴られている。  書かれたメニューを見る限りおそらくそこはBARかなにかではないだろうか。しかしまだ十九時前だ。営業はしているのだろうか。けれど佐樹さんは迷うことなく階段を下りて行く。その後に続き階段を下りれば、彼はゆっくりと扉を開いた。  扉の向こうは縦長のフロアで、カウンター八席ほどのそれほど広くないこぢんまりとした店だ。やはりまだオープン前なのか、室内を照らす照明は明るい。  カウンターの内側にある棚には酒のボトルがびっしりと並んでいて、想像通りBARなのは間違いないようだ。しかし酒の飲めない彼がこんな場所に出入りしているというのは意外だった。 「こんばんは」 「はーい」  しんとした店内に佐樹さんの声が響く。すると人の気配がなかった空間に別の声が響いた。返事したのは男の声で、カウンターの奥にあるスイングドアを開いて顔を出す。
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