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いつも彼は隣で優しく笑う。その笑みに安心してしまうけど、その内側にある感情を時々見落としていまいそうにもなる。だから時折こぼれる小さな本音を聞くたびにはっとさせられた。
彼は自分よりもずっと大人だから、感情のままに我がままを言ってくれることがほとんどない。我慢をさせているなと感じることもある。それでもなにも言わずに彼は俺を抱きしめてくれた。だからもっと俺はこの人を大切にしてあげなければいけないなと思う。
「そういえば、今日は仕事かなにかだったのか?」
「え?」
二人並んで電車に揺られていると、ふいに佐樹さんがこちらを振り向いた。じっと俺を見つめる視線に首を傾げれば、指先を向けられる。
「あ、ほら。休みの日はお前いつも眼鏡だろ。今日はコンタクトしてるし」
「ああ、そういうことか。朝早くに電話が来たでしょう? 急に店の取材が入ることになって、それに借り出されてきました」
「へぇ、そういうの初めてだよな。また忙しくなりそうだな」
「ですね。とは言っても限界があるんですけど」
苦笑いを浮かべた俺に佐樹さんはひどく心配そうな顔をする。いまでもありがたいことに昼のランチタイムなどは満席になることも多い。来店が重なると厨房もホールも息つく間がないくらいだ。彼の心配はそれをよく知っているからだろう。
浩介は迷惑はかけないと言っていたが、まったく反応がないと言うことはないはずだ。彼が来てくれる日に、忙しくて気を遣わせるだなんてことにならなければいいけど。いや、それ以前に遠慮して来るのをやめてしまいそうな気もする。
おいしそうにご飯を食べる姿を見るのが癒やしだったのに、それを取り上げられるのはちょっと癪だなと思った。
「そうだ。今度新しい珈琲豆を入れることにしたんですよ。前のブレンドよりおいしかったので、家用に少し多めに頼みました。明日持って帰りますね」
「うん、あそこの珈琲はほんとおいしいよな。楽しみにしてる」
やんわりと微笑んだその顔が可愛くて、こんな場所でなかったら抱きしめているのに、なんて思ってしまった。昔よりは理性を繋ぐ糸も強くはなったが、それでも彼を前にするとそれも随分と緩みがちだ。
混雑した電車の中で指を繋いで胸を躍らせていた頃を思い出す。まだ恋に浮かれていて、目の前の彼しか見えていなかった頃だ。でもその頃といま、彼に対する気持ちはそれほど変化していないと思う。
それどころか以前よりもっと彼のことが愛おしくなった。こうして傍にいられるようになってまだそんなに経ってはいないから、毎日が新鮮で毎日が色鮮やかだ。
お互い忙しくて朝晩くらいしか顔を合わせられないけど、それでも同じ場所に帰り、毎朝起きると傍に彼がいる、そんな日常がたまらない。
「佐樹さん、少し疲れてる?」
まっすぐ前を向いていた彼の横顔を見て、俺は少し顔をしかめてしまった。それほどひどくやつれているわけではないが、なんとなくいつもより疲労の色が濃い印象がある。佐樹さんは色が白いからこういう明るい場所に出ると、顔色が良くないことがすぐにわかってしまう。
「え? あー、んー、まあ、いまの時期はなにかと慌ただしいからな」
少し驚いたように目を瞬かせた彼は取り繕うように笑う。その表情に思わず手を伸ばしそうになったが、いまいる場所を思い出しそれは思いとどまって手を引いた。
今年の春からは就職、進学を控えている三年を受け持つはずだ。気の抜けない一年になるだろうから、その準備に追われて疲れていても当然だ。あまり気にせず約束を取り付けてしまったが、もう少し落ち着いてから誘ったほうが良かっただろうか。
「いま少し後悔しただろ。平気だぞ。授業がないいまのほうがまだマシだから。それに僕はほかに顧問とかもしていないしな」
なだめるように背中を叩かれて、佐樹さんの顔をマジマジと見つめ返してしまう。そんなにいま俺はわかりやすい顔をしていたのか。
「優哉のその不安げな顔はわかりやすい。何度も見てきたからな。あんまり僕に気を使いすぎるなよ。お前のその顔に弱いんだ」
そういえば、昔から彼は俺がなにかを飲み込もうとするたびに手を伸ばしてくれた。我慢をするな、ちゃんと吐き出せと言ってくれる。当時は彼の傍にいられることだけがすべてだったから、自分の感情なんてなくしてもいいなんて考えていた。
けどそれは自分勝手だったのかもしれない。佐樹さんのことを本当に思うなら、言葉にしてあげるべきだった。いつだって不安は相手に伝染するものだ。でも俺は不器用すぎて、いまだにそれがうまくできない。
「優哉、駅どこ?」
「え? ああ、次ですね」
「そっか、あんまり降りたことない駅だ」
窓の外へ視線を向けた彼につられてその先を見れば、電車は次第に減速してホームに止まった。人の流れに沿いながら降りた駅は、俺自身もそんなに来たことのない場所だ。
カフェや雑貨、宝飾店やアパレルの店が駅前に建ち並ぶ街で、あまり若い子たちが集まるような場所ではないと思う。どの店も落ち着いた雰囲気があり、街も行き交う人もそれほど賑やかしい印象はない。
「ここ知ってるぞ。結婚記念日に連れて行ってもらったって話してた先生が、随分と予約が取れない店だって言ってた」
「そうらしいですね。今回は仕事の報酬代わりに紹介してもらいました」
「料理はどれ食べてもおいしいんだって、デザートも種類豊富で目移りしたって言ってた」
並木道の大きな通りを抜けて、ざわめきが遠ざかる横道に少しそれる。裏通りを進んだ先に、目的の場所が入っている高層の商業ビルがあった。店の名前が書かれた看板を指させば、佐樹さんは声を上げて驚きをあらわにする。
彼が知っているのはまったくの想定外だったが、評判がいい店なのは間違いないようだ。エレベーターで十五階まで上がると、そこは絨毯の敷き詰められた広いフロアになっていて、四軒ほど店が入っているようだった。
しかしどの店も予約制なのか人が並んでいる様子はなく、柔らかな光に照らされているフロア内はとても静かだ。どれも覚えのある店名だったので、おそらく有名どころの店を集めているのだろう。
フロアの突き当たりにあるレストラン・ナヴィルドアにつくと、恭しく出迎えてくれた店員に浩介から預かったカードを差し出す。するとますます丁寧に頭を下げて、店の奥まで案内をしてくれた。
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