ナイトメア オブ メネシス(メネシスの悪夢)

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ナイトメア オブ メネシス(メネシスの悪夢)

「例えば、もしもの話だよ」  菊地原は缶ビール一本で酔っ払い、ソファに寝転びながら言った。顔は赤く、目は天井を見つめたまま離れない。世田谷区のとある町の、複雑に入り組んだ一画に200坪という広さで建設されたこいつの家には、お中元でもらったであろう期限切れ寸前のビールが二ダースほどあった。  タダ酒と聞けば、大抵の奴は集まる。両親が旅行中なのをいい事に、菊地原は俺と羽田を男ばかりの寒いパーティーに招待してくれた。菊地原はほとんど酒を飲まない。俺と羽田は、便所と直通しているんじゃないかというくらいに飲む。あんなにあったビールも、もう数本しか残っていなかった。 「未来において、最も地球を滅ぼす可能性があるのは小惑星との衝突だろう。怪しいぐらいに精密な観測によれば、地球の軌道は多数の小惑星の軌道面と交差している。ニアミスを起こす可能性は、俺達が考えるよりずっと頻繁に起こっているんだ」  笑い上戸の羽田は、何が可笑しいのか引き笑いをしながらバンバンと畳を打った。 「そういや、前にあったなあ!ヒーッ!」  大して面白い話ではなかったが、俺も調子を合わせた。 「一九九三年一月三日の、NASAがレーダー撮影した、直径は三キロ、地球から三五0万キロにまで接近した小惑星の事だろ?」 「お前、よく覚えてんなあ!天文オタクか?ヒッヒッヒ!」  余計な詮索だ。羽田のように能天気な奴に、紙面を一度見ただけで記憶してしまう人間の悲劇はわかるまい。  菊地原は起き上がって、深く頷いた。そして、挑戦でもしてくるつもりなのか、やけに鋭い目つきで俺を見据えた。 「地球の軌道面と交差する小惑星の数は千から四千、どれも地球の生物全体に十分な脅威を与える大きさだ。だけどこの中で比較的大きな小惑星のうち、レーダーで追跡できるのはわずか百ぐらいにすぎないんだ。さらに地球の軌道面と交差し、直径一00メートル前後の小型のものになると、その数は三十万にも及ぶ。しかもこの小惑星の軌道はほとんどわかっていない」 「わからないで結構だ。人は皆、いつかは死ぬ。死して屍拾うものなし」 「お前は死が怖くないのか?」 「怖い怖くないの問題じゃないね。確率や時間の問題だ。いつか死ぬ。階段ですっ転んで死ぬ確率と、隕石が衝突して人類が滅亡する確率に、大した差はない。同じ死であることは確かだし、その何兆何億何百万分の一に当たれば、いかなる防御も覚悟も恐怖も無に等しい。菊池原、お前は少し理屈っぽい。その上、不思議ちゃんにのめりこみ過ぎている。俺達は何でもない世界に生きてるんだ。科学は快楽だ。アシモフが皆を楽しませてくれるように、俺達も無知の大衆を楽しませてやればいい。恐怖なんて誰が欲しがる?まあ、恐怖もそこそこ余裕のある楽しみなんだが」  俺は酔ったフリをして、畳みかけてやった。アッパー、ボディー、そしてテンプルに一発。俺は量子力学を研究し続けるつもりだが、信奉する気は全くナッシングだ。一体、科学で何が証明できる?近所のスーパーの大根が、この日だけなぜ一本百円の特売品になるのか、理論的に証明できるか?出来やしない。  柄にもなく、菊地原はもう一本ビールを開けて一気に飲み干した。奴は今日、だいぶ荒れている。羽田は横で笑っている。全く、奇妙な光景だ。  俺は寄りかかっていた本棚を一瞥した。そこにはアインシュタインだの、ホーキングだの、シュワーツだのがズラリと並んでいた。なんと懐かしいテオドール・カルツァとオスカー・クラインまでいた。グレイトサティスファクション。  菊地原は、本という本を隅から裏側まで読む男だ。俺達院生の中では、ダントツに富士山八合目付近ぐらいに本を読んでいるだろう。成績もこいつがトップ、人徳もこいつがトップ、ついでに禿げた教授のお気に入りナンバーワンに輝いている。軽く助手、手堅く准教授、ラストは権威の教授と上り詰めていく、そういう予感がプンプンしている。  羽田は反対に、院をそこそこの成績で卒業後、どこかの大企業に入って、宴会幹事でもやって、やはりそこそこに仕事も出来て、ちょっと重役のお嬢さんと知り合って、逆玉の輿で社長にチャッカリ就任というタイプだ。苦悩や困難という言葉から、千億光年ほど離れている。こいつと菊地原が、幼稚園時代からの友人だということに、俺はいささか胡散臭さを感じている。どう考えたって、有り得ない。これを公式で証明できるならやってみな、偉大なるシュレーディンガー。  俺はちょいと顔を上げて、窓の外を覗いた。月はない、星もない。神が床に臥せる頃だね。羽田は爆笑、菊池原は沈黙、俺は憂鬱。誰か、革命を起こしてくれ。  リングに誰も上がって来ないから、俺は退屈だった。カモン、菊地原。今なら、お前の相手ぐらいしてやれる。  俺が鼻で笑うと、何か頭に来るものがあったのか、菊地原は息を吸った。そうだ、お前にはディベートがよく似合う。ただ、お前は俺に勝てない。俺は発見者、お前は応用者。月と六ペンスほどの違いがある。お前には飛躍的発想が全く見うけられない。勉強だけが取り柄の、川原石のようにいる秀才学者だ。  菊地原がリングに上がった。カーン、ラウンド開始。羽田、笑いっぱなし。 「長期的に見れば太陽はいずれ死ぬ。核融合の原料となる水素を使い果たしてしまえば、次はヘリウムを燃焼して、激しく膨張し、最終的には火星の軌道付近まで膨らむ。当然、地球は太陽に飲み込まれていく」 「俺達が腐りに腐った後にな。死んだ後の心配なんざ、生きてる奴らがするもんだぜ?お前、すでに老後の心配でもしてるのか?」 「黙って聞けよ!」 「ヒーヒッヒッヒ!」 「俺は聖徳太子の生まれ変わりだ」 「とにかく、今から数十億年後のある日、北極と南極の氷は解け、世界中の海岸に巨大な高波となって押し寄せる。海水は沸騰し、大気は宇宙空間に飛散していく。俺達の想像を超えた凄まじいい破局が地球を覆い尽くすんだ」  ヘイへイ、カール・セーガンか?お前の言っていることは、ちっとも科学じゃない。科学の本質は追及にある。お前は、朗読の域を越えていない。自分の発想が出来ない奴に、科学者は務まらないぜ。お前に比べれば、アシモフは大大大以下省略天才だ。  黙っていると言った手前、心の中で馬鹿にしてみせる。すると、テレパシー能力でも持っているのか、ニューエイジ菊地原はまた食ってかかってきた。 「数十億というスケールで考えれば、銀河系にも確実に死がやってくる。太陽系銀河からいちばん近くにある、アンドロメダ銀河でもニ00万年も離れた所にある。二倍から三倍の大きさの銀河と太陽系銀河が、秒速一二五キロという猛烈な速度で接近し続けて、五十億年から百億年の間には衝突するかも知れない」 ああ、お決まりのコースか。おい、秀才君。数十億だぜ?そんなに人類は生きられない。その頃、地球はモンキーズプラネットだ。  それより、考えてもみろよ?宇宙は解放され、永遠に膨張し、絶対零度で死んでいく。宇宙は閉ざされ、永遠に収縮し、超高温で死んでいく。素敵じゃないか?俺は宇宙に女を感じるね。俺達は宇宙に突っ込んで、ガンガンに振ってやって、ビックバンを起こせばいい。星が誕生し、歴史が始まる。とてつもなく素敵じゃないか? どうも死ばかりを連想しているが、前途洋洋たる菊地原に何が起こったというのか? 「よお、菊。お前、嫌な事でもあったのかよ?」 上手い具合に、羽田が核心を突いていく。少しだけ、こいつらが幼馴染だという事実が飲み込めてきた。 しかし、菊地原は竹馬の友を無視して話を続けた。羽田が俺を見て、肩をすくめた。 俺は無意識にビールを探す。だが、全てを羽田に飲まれていた。素面で科学を語れというのか?無理だよ、俺は酔うために科学をやっているんだ。 柱時計を見れば、午前二時。どこぞのタロット占い師が閉店する時間だね。 菊地原は次に吐き出す言葉を選んでいるらしく、難しい顔をして腕を組み、深呼吸を繰り返していた。短気な俺は、どうでもいいから終りにしてくれと思いつつ、どうも口から先に産まれてきたのか、つい奴より先に言葉が出てしまう。 「菊地原、俺達は何処にも行けない。この地球のこの次元で生きるしかない。先まわりして失礼するが、お前はメネシスの話から、高次元への脱出を語るつもりだろう?だが、俺達は何処にも行けない。惑星衝突か、超高温のビッグクランチか、絶対零度の中で死んでいく。お前の知っている通り、人は二次元では構造自体が形成されない。俺達はSFアニメの世界に住んでいるわけじゃないんだ。どうやって逆ニ乗則の世界で生きていける?逆ニ乗則が成り立つ重力や静電気ですら、二次元じゃ銀河のような安定した回転構造は形成されない。距離依存は逆一乗則になる。多くの公式数式がトリヴィアルだ。俺達大ショック、全然エキサイトしない。真っ二つに割れて、口と肛門の区別がない窪みの体腔で消化吸収する生活なんてしたいか?分子の一次元鎖で内側と外側に別れて、生体機能を取れると思うか?だから、もし高次元に通り抜けたとしても、俺達が生きていけるかは別個の問題だ。十のマイナス三十三乗センチメートルの世界じゃあ、マイホームは無理だ。超弦理論なんて、クソ食らえ!」 「しかし、超弦理論を使ったコンピュータの計算によれば、天地創造の次の瞬間には、現在の四次元空間は双子の六次元宇宙を犠牲にして膨張し始めたということがわかっている。この仮説が正しいとすれば、四次元宇宙が崩壊するとき、双子の六次元宇宙が次第に膨張を始めるかも知れない。双子同士の繋がっている宇宙で、生きていけないなんて事があるのか?」 「それなら、あの世とこの世は繋がっているのか?多次元世界の超弦理論は、そこら辺のオカルトと大して変わらない。そりゃ楽しいよ、理論だからな。俺も存分に楽しんでいる。しかしそれなら、俺達は死ぬ事に何の意義も意味も持たないだろう。別世界だからこそ、畏敬しているんだ。俺達はそこでは生きていけないんだ」  いい加減にしてくれ。こっちは必死で生活しているんだ。ダムのように貯蓄のある家庭に育った奴にはわかるまい。理論なしでは生きていけないが、理論だけでも生きていけない。新薬を飲み続け、採血されて腕が青くなっている俺の不健康な体を体験してみるか?引田天功でも出てくれば楽しいが、そんな可能性がマイナス値のダンボールを運びまくる世界に身を投げ出せるか?読みたくもないイングリッシュ三文小説を読んで、それを提出レポートの期限を迎えたその日にまで翻訳しなければならない時間が欲しいか?無理だよ、お前はそこから何処にも行けない。俺も、お前の世界には行けないんだ。  菊地原は飲み過ぎで吐き気がしたのか、先ほどからウッウッと喉を鳴らしている。一瞬、泣かれたらどうしようかと考えてしまった。泣くなよ、大の男が。  俺はゆっくりと立ち上がり、頭を大きく振ってアルコールを飛ばした。そして、菊地原を見下ろした。 「菊地原。何があったか知らないが、現実から逃げるな」  菊地原はスッと酔いを醒まして、俺を見上げた。何か言いたそうなのを遮って、俺は部屋を出た。羽田が呼びとめる。 「おおい!何処に行くんだよ?」  俺は答える。 「何処にも行かない」  菊地原の家を後にして、俺は歩き出した。駅に向かっても、終電はとっくの昔に通り過ぎている。歩いて足立区のアパートに帰るには、足取りが怪し過ぎる。あの家でうずくまって、朝を待てばよかったかもしれない。  携帯電話を取り出して、片っ端からコールを入れる。一人の女が網にかかった。今から車で駅に迎えに来てくれるという。 ゆっくり眠りたい。誰でもいいから、温かい体温と共に。 赤いスポーツカーはすぐにやって来て、俺を連れ去った。そして、高そうなマンションに滑りこみ、俺は眠った。黒髪豊かな女の胸に顔を沈めて。一通り、ハードでディープな時間を提供し女を満足させれば、俺のちっぽけな安らぎは得られる。時々しか甘えない俺に、大抵の女は嬉しそうに体を貸してくれる。有り難う、それ以上でもそれ以下でもない女。名前なんて、とうの昔に忘れた。 しかし、夢の中にまたタロット占い師が出てきて、たった三時間しか残されていない安らかな睡眠を邪魔しにかかった。 「ねえ、『メネシス』ってなあに?」  首を傾げ、大きな瞳で、口を尖らせて、怒っているのか困っているのかわからない表情。深緑色の髪を後ろに束ねて、前髪をプラチナのピンで留めて、化粧っ気のない顔。しゃがみ込んで俺の顔を覗き込み、プニプニと鼻を指で突っつく。  またお前か。近頃、お前の夢しか見てないよ。  俺は腹が立って、さっさと退去してくれるようにと、棒読みで説明してやった。 「今から六五〇〇万年前に彗星か小惑星が地球に衝突して、恐竜を絶滅させた。これは地層を調査するとその時代にあたる部分からイリジウムという隕石の中にしか含まれていない物質が検出されたことで分かった。惑星衝突での動植物種の大量絶滅は、少なくともこれまで五回あったと考えられている」 「ふうん。五という数字は、進歩・発展・冒険の数だね」 「黙って聞け。俺は今、非常に眠いんだ」 「でも、黄金分割の数だよ?」 「ヴィネケンの比率が、隕石と俺の睡眠欲に関係あるのかよ?」 「『ヴィネケン』ってなあに?わかんないよう」  俺は、馬鹿は相手にしない主義だ。無視して先を進めることにした。 「古生物学者のディビット&ジョンは、それぞれの地質年代に地球上に存在したことが分かっている種の総数をグラフ化し、およそ二六〇〇万年の周期でその数が激減していることを突きとめた。だが最大の謎は、一体なぜ二六〇〇万年周期なのかということだ。古生物学、地質学の各分野で集められたデータを検討しても、謎は解明されていない。そこに一九八〇年、カリフォルニア大学の科学者グループが、アシモフもビックリするエキサイティングな、もうひとつの太陽、『メネシス』の存在を発表した。実は太陽が二重星で、もう一方の星、死の星と名付けられた『メネシス』が地球上の動植物を周期的に絶滅させているのではないかと仮説を立てた。『メネシス』は二六〇〇万年の周期で太陽に接近すると。『メネシス』が冥王星の軌道の遥か彼方にある彗星の巣『オールト雲』のそばを通過すると、彗星がなだれのように太陽に向かって接近を始め、その中のいくつかは地球と衝突する。この仮説には証拠がある。各地質年代の地層を古いものから順に調べていくと、大量絶滅の周期に対応する地層には必ず多量のイリジウムが含まれている」 「いつ、その周期がやってくるの?」 「俺達が死んだ後に」 「『メネシス』は復讐の女神だね。誰に復讐するの?」  知らないよ。お前は誰に復讐したいんだ?  タロット占い師は、小さな胸から一枚のカードを取り出した。 「あなたの今日の運勢はこれです」  逆さまに差し出されたカードには、厳つい禿げたオヤジが杖を持ち、手を差し伸べていた。  ヘイ、そこに科学はあるのかい? 「五という数字は明けの明星の象徴で、消え逝く夜を表していて、去りゆく魂の象徴でもあるの。早く起きてね。新しい世界が待っているわ」  新しい世界なんてあるわけがない。起きても、昨日の続きが待っているだけだ。俺は永遠に眠りたい。誰でもいいから、温かい体温と共に。
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