第18章 わたしと彼の必然性

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突然、パソコンから音声が聞こえてきて不意を突かれて飛び上がりそうになった。慌てて子どもを抱え直し、改めて鳴沢さんの方に視線を向ける。 よく見ると、彼の目に向けてセンサーのようなものが装着されたままだ。きっとわたしたちが到着する直前までこれを使って香那さんと会話をしていたに違いない。 わたしは高鳴る心臓を抑えて、なるべく落ち着いた表情と声で言葉を返そうとした。 「ありがとうございます。おかげさまで。無事にこうして生まれました」 『…な。ま、…え。は』 何言いたいかすぐわかる。わたしはにっこり微笑んで答えた。 「竜之輔、っていいます。…星野竜之輔」 ドラゴンタイプであるのはいいとして、竜の字をどっちにするか二人で迷った。結局、テストに名前書くとき画数多いと大変だよね、とわたしが言った(つくづくものぐさの発想だ…)のが決め手になって龍をやめてこっちに。 鳴沢さんの位置からよく見えるようにそーっと竜之輔をそちらへと近づける。赤ん坊はふにゃふにゃ、と微妙に変な声を出したがありがたいことにまだ起きなかった。よほど車内が気持ちよかったらしい。 『か。…わ。…いい、ね』 「ありがとうございます。鳴沢さん、お話しできるようになってよかった。でも、お疲れなら無理なさらないでくださいね」 わたしはにこにこと彼に顔を見せて話しかけた。沈黙が続いても気にしたりしない。こういう会話が彼にとってすごく負担だってことは事前に聞いてるし。 それでも鳴沢さんは何か言いたいことがあるのか、精一杯しきりに目を動かしているのがわかった。 『…か、なの、こ、…と。き、…み、に。…す。ま、な、…い』 コンピュータで合成された感情のない音声がたどたどしくそんな風に呼びかけてきて、わたしは息が一瞬詰まった。 鳴沢さんは当たり前だけど身動きせず、眼球だけを何とか動かしてわたしに何かを伝えようとしてる。 『き。み、に。つ、…ら。い、お。…も、…い。さ、せ、た』 「そんなこと」 わたしは夢中で首を振った。 この人は知ってたのか。星野くんと彼女のこと。動かせない自分の身体の中に閉じ込められた状態で。そんな事実を受け入れざるを得ないのはどんなに苦しかっただろう。…そう思うと。 「わたしは。むしろ、香那さんのおかげで、今のこの生活があると。…彼を幸せにしてくれた人だし。それに、わたしの方だって」 この人以外誰も聞いてない。そう思ったら、どっと何かが溢れてきた。 「わたし。…ほんとは、他人には言えないようなことが自分にもいっぱいあって。いろいろと、…ひとのことをどうこう言えるような立派な人間じゃないんです。実際には…。そんな中でたまたま、星野くんに救われて。香那さんは、その彼を支えてくれていたひとだから。奥様に思うところなんて、全然最初から。それよりも」 不意に目の周りが熱くなった。 「鳴沢さんこそ。これまで大変な、辛い思いをされて。…うちの人のせいで。本当に、…申し訳なくて」 彼がゆっくり瞬きをしたのがわかった。 『だ。…い、じょ、…ぶ。ぼ、く、は。…か。な。ぼ。く、か。ら。は、な、…れ。な、い。…そ、…れ。は。し…っ、て。る。…さ。い、しょ。…か。ら』 そうか。 鳴沢さんは、奥さんが彼と別れる気がないのはちゃんと承知してた。だからそのことで自分が不安を覚えることはなかった。 だから不貞を働かれた夫というより、むしろ危なっかしい娘の言動をはらはらと見守る父親みたいな心境だったのかもしれない。その上で、星野くんやわたしへの影響がどう出るのかを心配してくれていたんだ。 鳴沢さんの眼差しがどうしてか優しく感じられる。わたしと息子を包み込むように見つめ、やがて再びゆっくり瞬きした。 『こ。…れ。…か、ら。…か、…れ。と。あ、か、…ちゃ。ん。…と。…み、ん。な。…し、あ、…わ。せ、に』 わたしは思いきり、にっこり微笑んだ。彼の目の中に笑顔を焼きつけるように。片方の目尻から、すうっと何かが落ちていくのはわかったけどもうそれは気にしない。小学生みたいに元気よく、はっきりした声で答えた。 「はい。…もちろん、そのつもりです」 《第10話に続く》
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